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内親王としての基礎の学び

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違う意見にも寛容にとか、様々な意見があってのブログとか・・おっしゃる事はよくわかるのですが、だからこそ、私はどんなコメントも一応は承認して来たつもりです。

しかし、当ブログのスタンスは変わりませんし、そこそこここまで・・・と思っている記事に対しての執拗な反対コメントは、当ブログのスタンスと逆方向へ読者を誘導しているように見えて仕方ありません。

申し訳ないですが、例の事件以来「擁護」を装った「反対意見への誘導」には慎重になっております。

ラピスラズリ様、私はひどく不愉快です。ずっとずっと我慢して来ましたが、どうして「ああいえばこういう」なのか。「そうか。ふぶきはそうなんだ」で済ませて貰えないのはなぜですか?そういう反対意見があるのであればご自分のブログでおやりになって欲しいと思うのは私のわがままですか?

「こんな書き方は許せない」とかコメントされるよりもさらりと読まない方が賢いのではありませんか?どうして執拗に自分の意見を押し付けるんでしょう?

「親切に忠告してやったのに」と思われた方、すみません。ありがとう。

でも自分のブログの中でくらい、好きに語らせて下さいな。

なぜそういう言葉を使ったのかと考えていただくのは構いません。不適切であると思われたらすみません。でも、そういう気持ちの時もある。それが私の「個性」です。

本当に我慢してきましたけど、今回ばかりは危険性を感じますので言わせて頂きます。

私の眞子様への考え方は変わりません。

どんな立派な生まれの女性であっても、まだ26歳であると考えます。未熟な部分を認めてあげたいです。言葉尻を捕らえてがっかりしただの、こうであるべきだのと言ってほしくないです。

眞子様の事よりも大事なのはもうすぐ天皇と皇后になる東宮夫妻ではありませんか?

そして「退位」を言いつつ、「満身創痍」を装いつつ、マスコミ操作して「慈愛」を演出しつつ、フルムーン旅行に勤しむ今上と皇后ではありませんか?

両陛下こそ、平成の皇室をここまで貶めた張本人であるというのに。

眞子様の数日前の公務についてあれやこれや言うより、今、そこにある「両陛下のお遊び旅行」の方が問題ではありませんか?

静かに、視えない様に、それでも「当代・次世代の両陛下には賛同できない」態度を明確にする事が大事です。

また、興味がない、ふーん程度の人達にも身近な問題を提起しつつ、皇室問題に関心を抱かせる事が肝要です。みなさん、政治家が無駄遣いをしたら怒るでしょう?どうして皇族がそれをやっても怒らないのか?

私達にとって皇室とは何か。それを考えるには根っこが問題なんです。

 さて、「内親王の皇族教育はどんなだったか」という質問に出来るだけ誠実にお答えしたいと思います。

 幕末までの女性皇族

基本的に天皇家は貧乏でしたので、たとえ天皇の子供に生まれてもすぐに親王になったり内親王になったりする事はありませんでした。

嫡子以外の多くの親王や内親王は生まれてすぐに仏門に入れられます。

一生、知っているのはお寺の庭ばかりで読経三昧の生活だったのです。

 幾佐宮隆子女王のスキャンダル

1841年。天保年間・・もうちょっとで幕末っていう時代。

伏見宮貞敬親王の11番目の女王、隆子女王が伏見宮邸を抜け出すという事件を起こします。23歳の時でした。

女王が行方不明になったので大騒ぎ。

でも、彼女が向かった先は年上の甥にあたる山階宮晃親王の元でした。

二人はお寺で出会って恋に落ち、二人で駆け落ちを考えていたんですね。

これは時の天皇、仁孝天皇(明治天皇の祖父)の怒りを買い、二人とも閉門・蟄居。

晃親王は後に身分を回復し宮家を立てるのですが、隆子女王は出家させられて一生お寺に預けられたまま亡くなり、名誉回復は亡くなった4年後の事でした。

隆子女王は沢山の姉妹がいましたが、早世した女王を除けばほとんどが有名寺の門跡になったり結婚したり。でもこの隆子女王はそのどちらでもなく宙ぶらりんの立場で相当鬱屈していたとみられます。

また晃親王も当時は法親王で、このまま一生隣村にも行けない身と嘆いたそうですから、それこそ束の間の「自由」を求めておn遁走劇だったという話です。

当時の内親王も女王も公家や徳川家に嫁ぐ事が出来たら一番の幸せ。

門跡として名声を得られれば二番目の幸せ。あとはひっそりしたものですね。

 桂宮淑子内親王

淑子内親王は仁孝天皇の娘、孝明帝の姉です。

今の眞子様とほぼ同じ立場で、内親王宣下を受けて閑院宮愛仁親王とご婚約。

幸せな人生が待っていた筈が・・・まさかの愛仁親王の死で・・桂宮家を継ぐ事に。非常に人見知りをするタイプと言われ、でも身分は孝明帝の后、夙子女御より上の准后宮と称されました。

 明治以降の内親王教育

幕末までの姫はいわゆるたおやかで和歌を読み写経をして・・・という生活。

当然、明治になってからもそういうものと思っていたら、ここに「皇室外交」が登場

勉強好きな昭憲皇太后は積極的に外国文化を学び、それをサポートしたのは下田歌子。彼女はヨーロッパを巡り、キリスト教を土台とした女子教育に目覚めます。

すなわち、ボランティア精神、知識、教養、ダンスや英語等々、外国人と対等に渡り合えるような教育を施したわけです。

しかし、彼女が設立した華族女学校が学習院に併合されると下田歌子はクビになってしまいます。

今思えば、女学生の袴も下田が考案したもので、多分に当時は「はしたない」と考える向きもあったでしょう。

何度も書きますが、親王と王と華族男子には「軍務につく」義務があったので、100%士官学校に入ります。

しかし、女子に関してはとりたてて義務はなく、華族女学校を出たらほとんどが誰かと結婚して子供を儲ける・・・のが義務。

重要視されたのは容姿・教養・礼儀作法、そんな所ではないでしょうか。

 昭和天皇の皇女たち

明治天皇には4人の内親王がいましたが、全て側室腹で宮家男子と結婚する事によって宮家を立てる役割をしました。

大正天皇には内親王がいませんでした。

昭和天皇には5人の皇女がいましたが、そのうち4人は「呉竹寮」と呼ばれる宿舎で暮らしました。

軍の方針もあったでしょうが、要は「良妻賢母」になる事のみを重視されたわけですね。

大体20歳くらいで宮内庁が用意した人と結婚。多分、拒否権はなかったものと思います。

東久邇家に嫁いだ成子さんは苦労してがん闘病で早世。

鷹司家に嫁いだ和子さんは皇族で初の「民間人」とご結婚。子はなく、夫は浮気して死亡。残された家に強盗が押し入るなどして赤坂御用地で暮らす事に。

池田家に嫁いだ厚子さんは皇居から遠い岡山へ。

島津家に嫁いだ貴子さんの嫁はカナダ人。

今上には紀宮清子内親王が。

歴史的に見ても晩婚中の晩婚。井上内親王以来かしら?

サーヤは日本舞踊を習っていましたよね。文章力もあり、非常にご優秀。

時代と共に内親王の在り方も変わりました。

戦前は「呉竹寮」に隔離されていた内親王。

生まれも育ちも皇族そのもののご両親と、それを支える宮内省という組織の中で「特別な身分」である事が当たり前でした。

でも戦後は皇室の藩屏となり、唯一、境遇を共感しあえる華族制度がなくなり、皇族方は孤独になっていきます。

その「孤独」を推し進めたのが当時の皇太子と正田美智子さんだったわけです。

サーヤは「いずれ降嫁する身だから」とわざわざ一般の幼稚園に通わせたり、母と娘だけの旅行をしたり、成年式ですらほとんどないのと同じ扱い?

降嫁した後に困らないような教育を施されたわけでしょう?

結局は35歳まで独身だったわけですが。

サーヤが22歳くらいであっさり結婚していたら秋篠宮家の内親王教育も違っていたかもしれませんよね。

 

 


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