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Channel: ふぶきの部屋
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宝塚100年に向けて・・・原点に帰れ  1

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 できすぎ君 じゃなかった・・・・内村選手、

金メダルおめでとう (次のCM楽しみにしてます

こういうのを本当のリベンジっていうんじゃないかしら?

オリンピック始まってから初めて清清しい気持ちになりました。

今回ばかりはロンドンのマスコミも苛めないでしょう

エアケイも88年ぶりのベスト8おめでとう 師匠を超えちゃった

なぜか彼の顔を見ると松岡修造がドアップで浮かび上がってくる

でも・・・例のバドミントンの無気力試合で、インドが日本にまで「無気力やった」

ってクレームつけた?それが却下されたら「えこひいき」だって?

もうやだなあ・・・・ トーナメント制に問題があるのは確かでしょうけど。

 いやーーこの暑さには負けるっ

手術をしたせいなのか免疫力が落ちているのか、今年は7月に入るなり

喘息が予期せぬ所で起きたり、全身がかゆみに襲われる「アレルギー状態」に。

特に頭がひどくて皮膚科に行ったら「脂漏性皮膚炎」と言われて薬を出され。

その後も目のかゆみとか痛みとか・・・・・?

さらにちょっと外出すると体中に熱がこもって微熱と頭痛。

旦那は単に「外に出ないから体力が落ちているだけ」って言うけど、これじゃ外に

出られないじゃないねーー

といいつつ、週末から中禅寺湖へ行ってきます。少し涼しい所へいけば元気に

なるんじゃないかと。

アレルギーの原因は、ベランダで育てている植物っていうか、土が舞い上がる

せいもあるかもしれないし、もう一つはジュニアの部屋のお片づけでしょう。

古い雑誌や本は埃だらけですし

で・・・いつものように整理していたら懐かしい資料が出てきました。

 

これ、誰でしょう?

実は戦前、花組に所属していた楠かおるさんという男役さんです

今から9年くらい前ですが、「宝塚アン」で戦前の脚本集を見つけて買い漁り

それが高じて関西のお友達に池田文庫に行って頂き、せっせと戦争中の

歌劇やらグラフなどをコピーして送って頂いた事があります

(本当にあの時はお世話になりました)

その資料の中のこの顔を見つけ、舞台を見た事ないし、どんな人なのかさっぱり

わからないままにファンになり

一度だけですが自分で池田文庫に行き、カエルのような顔をした受付の

おじさまにお願いして、せっせとコピーしまくって・・・色々調べました。

資料コピーの目的は日中戦争が始まった頃の宝塚の脚本と、

「広告」を見たくて・・だから当の楠さんの事は写真をコピーするに留まり。

その後、色々調べてわかったことは

  20期より下?

 星組に配属、その後花組に組替え。

 若手筆頭的な扱い。

 主演経験は1作?

 昭和17年ごろ退団?

 戦後は日活、マキノ正博監督の映画に脇役で出演。

 その後は・・・不明。

どなたか、これ以上の事をご存知の方は教えてくださいませ。

写真を見ていると、当時の男役としては破格に体型がいい。足が長い。

洋装がぴったりで都会的に見える・・というのがあります。

ちょっとぽっちゃり可愛い系春日野八千代とか大人の魅力の葦原邦子、

中世的な小夜福子とは違って、「男役の為に生まれてきた」ような、いわば

現代的なスターだったと思います

なぜこの人が、宝塚に残らなかったのか。もっと主演をして欲しかったのに

それがダメだった理由は?と考えまして。

で、故渡辺武雄先生に一度だけお会いした時にお聞きしました。

「今も昔も演出家次第。葦原邦子には白井さんが、小夜福子には東郷さんが

いたからね。ツレちゃんだって植田先生がいなかったらスターに

ならなかったかもしれない。要するに演出家との相性とか選び方」

と言われて、当時は納得できなかったんですが、今はよくわかります

きっと・・・(勝手に思ってますが)彼女は早すぎたスターだったのではないかと。

 

今回、池田文庫でコピーした分と家にある脚本集が出て来て。

その中には演出家やファンからの容赦ない言葉が沢山あり、さらに

小林一三先生の人となりがわかるような文章も見つかったので、

それをつぶさに読んで、参考になりそうな部分を抜書きしていこうと思います。

(でも・・歳なのね 9年前は小さい文字も平気だったのに今は面倒。

なので姫にも手伝って貰い、全100枚以上を拡大コピー・・・こんな事しても

お金が消えるだけなのに)

わずかな資料数ですが、その中には宝塚100年に向けての課題が

はっきりと示されています。

迷ったら原点に帰れ。経営者の方々はもう一度池田文庫に行って

全ての歌劇やグラフ、宝塚春秋を読むべきですね

戦前の歌劇やグラフは古本屋で買うとめちゃくちゃ高いので手が出ません。

出来ればもう一度池田文庫へ行って、創刊当時の歌劇やグラフなどを

つぶさに調べて「宝塚とは何か」という事を研究したいものですが

 

宝塚ファンにとって100年の歴史はいわば教科書的に知っている事

でしょうが、初心者の方々の為に今回抜書きする資料の背景を

お知らせしますね。

 資料は昭和11年から16年までの歌劇・グラフ・脚本集(宝塚春秋)の抜粋

 当時の2大スターは葦原邦子・小夜福子。

 春日野八千代は葦原邦子の同期生。

 当時の音楽学校 → 13歳から18歳まで入学資格。1年制。

 組は4つ。星組が一番新しいが戦争の経過中になくなる。

  ダンスとか声楽科など、様々な科に分かれている。

 演目は通常3本立てか4本立て。平日は5時とか6時に開演。

  休日は正午の部が入って2回公演。

 大劇場と中劇場。

 少女歌劇発足20年程経過。マンネリと「プロか素人か」で悩んでいる時期。

 1937年、「轟夕起子」事件が起こり、小林一三は「宝塚映画」を作る事に。

 日中戦争勃発とともに、演目に軍事物が入り、プロバガンダ作品が増える。

 

こんな感じでしょうか。

当時は観客の半分が男性。それもアマチュア批評家が一杯いたみたい。

渡辺先生のお話によると、小林一三先生は観客の「うちわ」が止まるのを見て

舞台の成功か失敗かをみていたとか。

この時期、一番の問題は「宝塚少女歌劇はどうあるべきか」だったようです。

日本中に様々な演劇集団がプロとして発足していく中、宝塚は素人として

突っ走るべきなのか、プロとしてやっていくべきか悩んでいたんですね

「宝塚らしさって何?」みたいな議論がなされていました。

ファンの質の低下を恐れる意見もあり・・・そんな迷いの宝塚歌劇。

お楽しみに。

 

楠かほる

 

 

 

 


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