さて、私達の目に写真週刊誌を通して入ってきた小和田雅子さんはバブル時代の象徴のように見えましたね。
ハーバード大卒で東大を受けたら受かっちゃって、しかも母国で働きたいから外交官試験を受けたらさらに受かっちゃった・・・というあたりがまさに何でもありだなと。
実際にはこの年、女性で外交官試験を受け合格したのは最多の3人でした。そして私達が当時知り得なかった情報として
小和田雅子がハーバード大に合格したのは父親が教授をしていたから。ハーバードは実はとってもコネに弱い大学である。
現役外交官の娘で小和田恒の娘が試験を受けて落ちるわけがない
ということでした。要するにここらへんから「頭脳明晰で美女のお妃候補」としての売り出しが始まったんでしょうね。
では次の一枚は
これは1987年(昭和62年)に写真週刊誌に載った写真。俗に「指差し恫喝」写真と呼ばれるものです。
前年、あれだけ派手にマスコミデビューを果たし「美しすぎる外交官の卵」「清原級ルーキー」ともてはやされた小和田雅子がいきなりマスコミに指さし恫喝です。
「外交官試験に合格してから2週間もたたない1986年10月18日、雅子さんは元赤坂の東宮御所で開かれたスペインのエレナ王女の歓迎の茶会の席に招かれた。
彼女の名はタイプで打った招待者名簿に手書きで追加されていた。
意外に知られていないが実はこの時、雅子さんは外務省筋が推奨するお妃候補の最右翼だったのである。お妃候補の選定に動いた中川融・元国連大使(61)の証言
【85年秋、英国留学から皇太子が帰国されてからすぐ宮内庁で本格的なお妃選びが始まった。私にも依頼が来たので私なりに外務省関係者にあたってみた。するといろんなところで雅子さんの名前が出た。宮内庁に推薦したのは外交官にパスしたあとでした。推薦したのは彼女一人だけではありませんが、雅子さんを第一候補として推薦しました】
あらかじめ演出された出会いであったがこれが皇太子と雅子さんの初めての顔合わせとなった。その後、御所で開かれた内輪のお茶席、日英協会のパーティなどで出会いは積み重ねられた。
翌87年、高円宮邸でのパーティは、皇太子に決定的な印象を残した。この日、同席予定の英国人夫婦が欠席、高円宮夫妻のほかは皇太子と雅子さんだけが招かれた形となった。皇太子はインド、ネパールなど外遊先で撮った写真のアルバムを持参。歓談は深夜に及んだ。
が、二人の「デート」はマスコミに漏れ、取材陣が殺到した。当写真は「どの社ですか。名刺を出しなさい」とカメラマンを一喝する雅子さん。中々の迫力でありました」
この件に関しては「小田桐誠著【消えたお妃候補たち」には
「自宅を出てきた小和田雅子の前方に、早朝から張り込んでいた写真週刊誌などマスコミ4社のカメラマンが群がり、一斉にフラッシュをたいた。彼女は顔をこわばらせ、
「なんですか、あなたたちは。やめなさい」
と抱えていたバッグで顔を隠した。カメラマンたちは構わずシャッターを押し続ける。
「あなたたち、どこの会社なの。名刺を出しなさい」
と憤りをあらわに二の矢を放った。それでも取材攻勢はやまない。このため彼女は自宅に駆け戻り、息を切らしながら「お父様ァッ、お父様ァーッ!」と叫んだ。
1993年発売「SPA」にて田中康夫は
「例えば、自宅前で激写(フォーカス)された際、舌打ちしながら明らかに「馬鹿野郎」と呟き、「どこの社(プレス)よ、名乗りなさい」と気丈な反応を見せた魅力を、今の彼女の中に見出すことは、難しい。
この写真の小和田雅子から感じ取られるオーラはなんでしょうか?
いくら男女共同参画時代、男女平等の時代とはいえ、マスコミ相手に「名刺を出しなさい」と20代の女性が恫喝する上から目線。
普通は「どのような取材なのですか?お答えすることは出来ません」で済むような話なんですけど、見事にキレてますよね。もし「お父様ーー!」と叫んだのが本当だとすると、虎の威を借りる狐のごとく、権威主義にも見えます。
「馬鹿野郎」という言葉も今時は普通かもしれませんけど、良家の女性なら絶対に口にしない言葉です。
いきなり登場した「お妃最有力候補・小和田雅子」の名前は私達、皇室に関心のない人の間にも十分に浸透するように繰り返し週刊誌等が取り上げ、皇太子の初恋のように語られ始めました。
しかしながら、私達庶民からすると皇太子と小和田雅子の共通点が何も見えてこないんですね。ツーショットの写真もないし。本人は皇太子なんか意に介さない感じだし。ちょっと感じ悪いというか、お友達にはなれないなあと感じたのは
1989年9月、留学中の小和田雅子を追いかけてマスコミが取材している中、彼女はきっぱりと「わたくしはお妃問題には関係していません、ずっと外務省職員として生きていきます」と言った事。確か「浩宮さまとは結婚しません」みたいな話もしていたようで、そのあまりのきっぱりとした姿に「こりゃ駄目だわ」と感じましたね。
でもさらに1年前、88年にしつこい新聞記者に「あんな家にはいかない」と言い放ったそうで。
小和田雅子さんの⒦の手のエピソードは枚挙がありません。
駅で写真を撮られた時に記者の胸倉をつかんでゆすぶり「フィルム出しなさい!」と怒る
駅のホームでマスコミに気づくとタートルの襟をあげて顔を隠す。
「マスコミってウジ虫みたい」発言
温厚なベテラン記者の名刺を目の前で破り捨てた
残念ながら上記のエピは全て結婚後に出て来たもので、リアルに報じていた写真週刊誌ですら「なかなかの・・・」と誉め言葉調で、よほど皇室に関心がある人でなければ「こんな女はダメだ」とは思わなかったのではないかと。
これらの事実から見えてくるものはなんでしょうか。
小和田雅子の皇太子妃への推薦は外務省&小和田恒主導で本人無視の形で進められた。
何で「お妃候補」を国連大使やら外務省にもお願いするのよ。政治的な関りを持つ家は避けるのが普通なのに。
小和田雅子は自分が本気で「お妃候補」になっているとは思っていなかった。
高円宮邸に招かれた時も「私ってすごい」程度の感覚で恐れ多いなどとは一切考えていなかったでしょう。だから長々と時間を気にせずお邪魔して・・他人様のお家に深夜までい続ける図々しさは今も健在。
皇太子はぱっと見、小和田雅子は好みのタイプだし、物をはっきり言う女性には会ったことがないので新鮮だったと思うが「小和田雅子が一番」と回りに洗脳されていったのではないか。
例えば「最近の流行はいちご大福で」
「いちご大福とは?」
「えーーいちご大福知らないんですか?遅れてるーー」みたいなノリが好ましかったと思われますが、皇太子自身、自分が言った「ティファニーであれやこれや買う人は困る」をあっさり忘れているところがかなしいですよね。
見た目、学歴、高級な服装、流行りのキャリアウーマンという外側からのみ「皇太子妃にふさわしい」と思われた。そう思ったのは皇太子のみならず、その母である美智子皇后だったろう。