メーガン妃は偉いわねー妊娠してもちゃんとご公務なさって。肌の色なんか関係ないわー要は覚悟よね。といいつつ、今回生まれてくるお子様は英王室の中で唯一肌の色が違う子なわけで。(さすがに白人と全く同じというわけではないでしょうし)
親同士は納得した上で結婚しているし自己責任だけどこの子が、兄弟が多ければいいけど一人ぼっちにならない事を祈ります。
それにしても「育児休暇1年」を要求したのに叶えられなかったからって「産後鬱」から適応障害になる日本の次期皇后ってなあに?だよね。
1989年9月5日号
「皇太子お妃候補小和田雅子さん・25歳に怪文書が。
「こんな馬鹿なことがあろうか。皇太子妃の第一候補の小和田雅子の祖父が、あの水俣病の水銀垂れ流しの原因株式会社チッソの、専務社長会長を歴任。しかも、水俣病の原因がチッソ工場排水と確定した37年に常務に就任した。その後41年に水俣病の原因アセトアルデヒトの生産中止するまで専務として、中止や損害賠償について何もせず。……≫(原文ママ)
8月15日午後、本誌編集部に郵送されてきた“怪文書”はそんな書き出しで始まっていた。
切手の消印は“名古屋中央”とあり、茶封筒の裏には“松本誠一”とボールペンで書かれていた。
封筒にはワープロで打たれた19枚が同封されていて、現在、英国留学中の小和田雅子さん(25歳・外務省勤務)の周辺の人たちのことが克明に示されていた。
昭和48年までチッソの会長だった祖父のことを中心に、東大名誉教授、専修大教授、著名な評論家のおじから、雅子さんの父親のこれまでの行動等に細かくふれ、雅子さんが<皇太子妃にふさわしくない理由だ>というものだった。
また、皇太子さまがファンでもある歌手の柏原芳恵が<小和田雅子の従姉妹>であり、<最近は下着一枚のセミヌードのビデオや週刊誌の写真に登場している>ことも“ふさわしくない”としている。
雅子さんが最有力のお妃候補といわれて約2年。
こんな“怪文書”が登場するあたりが“本命”といわれるところなのだろうか――。
1989年9月28日。イギリスでマスコミに取材され「私は関係ありません」と発言。
1989年10月 なぜかマスコミに満面の笑顔を向ける小和田雅子
SPA1989年10月25日号
「小和田雅子さんの母親が語った「お妃報道に娘は涙したこともあります!」
「皇太子殿下のお妃候補として、最有力とみられていた小和田雅子さん(25)が、「関係ありません」と自ら否定したことで、「お妃問題」は再び白紙状態に―。殿下の“意中の人”とまでいわれた雅子さんだったが、本誌の直撃取材に対し、雅子さんの母、優美子さん(51)も、同感した心中をのぞかせた」
週刊新潮1989年11月23日号
「妃候補小和田雅子さんの線はこうして消えた」
「雅子が皇太子妃になる可能性は全くありません。完全にゼロです」
「「雅子が皇太子さまに四、五回お目にかかる機会があったということ。これは事実です。しかし、私が知る限り、小和田家としては、雅子がオックスフォードに留学する直前の昨年七月ごろに、東宮御所に対しては、しかるべき人を介し、皇太子妃ウンヌンはあり得ませんと、ハッキリお伝え申し上げてあるのです。もとより、それは御所から特別の意思表示がおありだったというわけではありません。」
「小和田さんがなぜあのような発言(私は関係ありません)をしなければならなかったかというと礼宮の婚約で興奮した日本のマスコミが「紀子さんの魅力に対抗できるのは雅子さんしかない」とすっかり舞い上がってしまったからですよ」
「9月28日、自宅のアパートを出て図書館に向かった雅子さんを追いかけてインタビュー攻勢をかけたのですがその結果が案に相違して「私は外務省の研修生として研修が終わったら帰国し外務省に戻ります」という事実上のお妃拒否宣言。テレビ局としてはそこまでハッキリしや言葉ではなくむしろ、可能性をほのめかす程度の対応を想定していたようなのですがそれがすっかり裏目に出てしまったようなのですよ」
「それでまず起こったのが母親の優美子の心身耗弱。救急車で病院に運ばれて20日間程入院してしまったんです」
どういうことかというと、皇太子がベルギー訪問をすることで、雅子さんとパリで会うんじゃないかという噂が立ち、マスコミが多数イギリスに押し掛けた。その結果母親の優美子が倒れ、アパートにまで押しかけられてSOSを発信した雅子さんはあのようなことを言ったというわけです。
祖母の江頭寿々子も「雅子ちゃん、もうはっきり言いなさいよ」と言ったけど、
「本当は当人の口からはっきり言っておけばよかったのかもしれませんが相手が皇室だからそこまでは(話が)あったとは言ってはいけないしなかったとも言えない」ということで悩んでいたんだそうです。
私はこれらの事から想像しますけど・・・・小和田家としては怪文書が出回るまではその気だったのではないかと。でもいわゆる怪文書に書かれていることは本当のことで、名誉に関わる、あるいは釈明せざるを得ず結果的に「私は関係ありません」になったのかなと思うんですね。でも妃候補である可能性は残したい。ゆえにはっきり「私は関係ありません」といいつつ、10月からはマスコミに笑顔を向けるようになったのではないかと。
さらに紀子妃の誕生が雅子さんに火をつけてしまったというか、この年にやたら雅子さんを持ち上げても意味がないと考えたのか、ほとぼりが冷めるまで妃候補から外れた振りをして、でも本当は「紀子妃なんかより上」と言いたかったのかなと。
1989年11月 自分とは全く関係のないマートンカレッジ(皇太子がいたところ)を訪れた小和田雅子
雅子さんとしてはその気がないのは確かだけど、オックスフォードで修士論文を完成させられなかったことで挫折感もあったかもしれないし。回りの態度や目線を感じ、それを一掃するには「皇太子妃におさまる」ことが最も得だと考え始めたのかもしれません。
なんて計算高い女なんだ・・・・と思いますけどね。