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宝塚歌劇にとっての平成とは何だったのか  4

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 宙組誕生

平成10年、宙組が誕生しました。

かねてからの1組あたりの人数の多さ、若手が活躍できないこと、そして東京通年公演を行うための新組創設でした。

その前年には東京宝塚劇場が閉じて、そして宙組発足に向けておおがかりな組替えが行われ私達はびっくりしたり期待したり、がっかりしたりしたものです。

宙組のトップスターには姿月あさと(月組)娘役トップには花總まり(雪組)二番手には和央ようか(雪組)3番手には湖月わたる(星組)4番手には朝海ひかる(花組)という陣容。

じゃあ、これで何か他の組の陣容が大きく変わったのか?というそうでもなく。

花組 → 真矢みき・千ほさち・愛華みれ・匠ひびき・伊織直加

月組 → 真琴つばさ・檀れい・紫吹淳(星組)・初風緑(花組)

雪組 → 轟悠・月影瞳(星組)・香寿たつき(花組)・汐風幸(月組)

星組 → 麻路さき・星奈優里(雪組)・稔幸・絵麻緒ゆう

一番影響を受けたのは雪組で、こののち1年もたたないうちに朝海ひかるが宙組から組替えで来ることになり、月組の樹里咲穂が宙組みへ移動する。

宙組はトップから3番手までがめちゃくちゃ背が高く、1000days 劇場で見ると非常に映えるものでした。

けれど、プレお披露目の香港公演からして出来が悪く、発足したばかりで息がなかなか合わず、それぞれの組カラーがごっちゃになって、殺伐とした空気を出していたのも事実です。

姿月あさとは自分がトップになりたかったわけではなく、だから組を引っ張っていくというのがとっても重圧だったようですし、花總まりは肉食系というかどこまでも追求するタイプ。二人の間の温度差が激しかったというのはあるでしょう。

また、どういうわけか新人公演を経験主演を経験したり、組替えすると退団するみたいな流れが出来ていたり、才能ある娘役が活躍の場もないままに退団していく姿を多々見せ付けられ、20年経っても落ち着かない組だなと思います。

組にはそれぞれカラーがあり、

花組 → ダンスの花組(今や・・トップが踊らない花組)

月組 → 芝居の月組(トップが大根の組)

雪組 → 日本物が得意な組(万能すぎるトップに頼りすぎの組)

星組 → コスチュームの組(これだけは伝統として残っている)

当時はこんな感じですが、じゃあ宙組は20年経ってのカラーは?と聞かれて・・・何と答えたらいいかわからない。せいぜい「見た目の宙組」というところでしょうか。

いまだに生え抜きトップが出ない組です。

宙組誕生によって東京通年公演が実現したのですが、公演期間が1ヶ月から1ヶ月半に延びました。最初は嬉しいと思っていたんです。チケットが取り易いし。

でも、おかげで1年で1組が2公演しか出来なくなり、これはトップスターの寿命の短さを考えると大きな問題でした。

またパンフレットの表紙からジェンヌの顔が消えたのも悲しい出来事。これによって堂々とパンフレットを見せて歩けるという人もいたけど、やっぱり違和感が。

脚本掲載、特にショーの脚本掲載がなくなったのも大変悲しいことでした。

戦前のような脚本集があるわけでなし、一度、バウの脚本集が出たことがありましたがそれっきりでしたね。

平成10年から、様々な古きよきものが消えて行き、削減されていくのでした。

 

 音楽学校移転

音楽学校が移転したのもこの年。

宝塚音楽学校といえば、早朝に看板を出し、稽古場をガムテープで掃除する、廊下は直角歩きでというのが特徴のようですが、そんな風になったのも昭和の「ベルばら」以降の話。大昔は非常におおらかで先輩後輩の差もあまりなかったらしいです。

新しい音楽学校になって看板だしはなくなったようですが、この時、学校の目の前に建つマンションに反対運動が起きました。

宝塚という街は今も昔も、一定のカラーを大事にしようとしない傾向があります。

歌劇と温泉と競馬場が同居している稀有な街。だったらその情緒を守るべきだと思うのですが、そういう意識が全く無いんですね。今時、歴史ある街はそのムードを守ろうとして店構えなどもレトロにするものなのに、どんどんマンションを建てちゃって。

音楽学校の目の前に建つマンション建築反対運動が起きた原因は、マンションから教室が丸見えになることだったと思います。今はそういう問題は解決したのでしょうか?

宝塚駅はJRでも阪急電車でも新大阪からは結構遠いし(っていうか、今回は特急電車ばかり乗ったんですけど、座れないっ!)宿泊するホテルが少ないので、それが集客に大きな影響を与えていると思いますけど、いまだに改善されませんよね。

周りから浮いているのが今の宝塚大劇場です。平成は本拠地の風景をあっさり変えてしまいました。

 

 植田理事長の誕生

平成8年、初の演出家出身理事長が誕生。

それが植田紳爾氏です。演出家出身だからさぞや宝塚のことを考えていろいろやってくれるんだろうと思ったら、やったことは大掛かりなリストラとえこひいきたったと記憶してます。

とにかく大劇場の稼動率を上げることに力を入れて、それがファンにも伝わって来るというか、入り出にいるファンの人数、お茶会の人数で番手が決まるとか、修学旅行生の積極的な取り込みとか、今にいたるあらゆることをしています。

また大道具とか小道具にお金をかけることをやめて、1週間かかるものを3日に仕上げろとか無茶振りもやっていたんですよね。

えこひいき・・・という点に関しては見方も様々だと思うのですが、稔幸のあとに彩輝直をトップに据えようとあれこれ動いたけど結果的に駄目だったというのはあります。

また、トップの若返りをはかるための「1作退団」を断行したのも理事長で、その犠牲になったのが匠ひびきと絵麻緒ゆう、そして貴城けいでした。「天海祐希は研10でやめている」とかわけのわからないことを言って、「時代が違うだろ」と大ブーイングされてました。

でも平成10年あたりからというもの、理事長始め古参の演出家がヒット作を作れなくなっていました。この頃から平成20年くらいにかけて不作が続き、特にショー作品はなかなか新しい動きが出てきませんでした。

今でもスカイステージでその頃の作品を見ますがやっぱりひときわ冴えないですよね。

組子の人数も100人からいきなり60人程度になり、フィナーレが短くなりスカスカ状態で、ああ、宝塚ってやっぱり人海戦術なんだと思いました。

それがよくわかるのが平成9年花組の「サザンクロスレビュー」と平成13年星組の「サザンクロスレビューⅡ」の違い。真夏とクリスマスの違いはあっても人の少なさが星組では目立ちます。

次第に植田理事長は「宝塚らしさ」というものを連呼するようになります。

一体宝塚らしさとは何か。

徒弟制度がなくなり、若い演出家が自己流の主張を始めたことで、演出家たちも宝塚の意義を見失ってしまったのではないでしょうか?

記憶として、藤井大介のみが「宝塚はお祭り」といっててしっくり来てたかな。

それと、平成10年は真矢ミキと麻路さきが退団した年です。

二人とも4年に渡ってトップを張ってきたのですが、この二人だけが伝統的な男役の型を継承していました。

その二人の退団に植田理事長も危機感を覚えていたのではないでしょうか。

一方で若返りをはからなければならない、でも促成栽培するとろくなことにならない。このジレンマはすぐには解消せず、植田理事長は後世に残る悪政を執行したのした。

 


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