ミモレというサイトでは上皇后になるその日まで毎日、皇后陛下の若かりし頃の写真をアップしてその崇高なるエレガンスを世に広めるんだそうです。
また渡邊みどりさんは、美智子さまのエピソードを文章と写真で振り返ります。
しかもふるい写真が新たに蘇るということでこれは期待できますよね。
しかし、まず大前提として
写真は全て美智子さまの「検閲」が入っている
美智子さまは皇室にいじめをうけている設定
どの写真も全部ポーズであり、自然な表情は一つもなし
という事を頭にいれてご覧ください。
ミモレいわく
「昭和46年1月2日、皇居で行われた新年の一般参賀で手を振られる美智子さま。華やかな色のドレスを主役に、控えめなパールのネックレスを合わせています」 でもよく隣りの華子妃と比べてみて下さい。 地紋入りの明るい色のお長服の華子妃。 そして美智子妃のお長服は一人金色のドレスです。しかも長袖にフリルという今と同じスタイルでですが、これって必要ですか? 切り替えも上過ぎるような気がするんですけど。 ついでにいうなら左手でお手ふりでございます。 金色のドレスにしてはパールのネックレスが地味すぎるような気がするんですが。 でも当時、昭和のころ、日本人が金色のドレスを着るなんてそうそうなかった事ですからさぞや驚いたでしょうし、観音様のように見えたかもしれませんね。 髪型はこの頃からウイッグを着用していたようです。 華子妃の自然な微笑みに比べると、美智子妃はどうみても「私が主役」と言っているようにしか見えません。 渡邊みどり 「戦前の天皇家では、子どもは両親の手元から離して育てる習慣がありました。親元にいては甘やかされて、将来国政を誤る恐れがあるというのです。 皇太子さまはこのしきたりにより、満3歳3ヵ月でご両親やご兄弟のもとを離れました。宮中に帰りたいとも言わず、ひとりで砂遊びをしている皇太子さまを見て、ご養育係は「本当にお気の毒さまだと思いました」とのちに語っています。それだけに、皇太子さまの「あたたかいホームがほしい」という願いは切実なものでした。
そして、その皇太子さまの夢は美智子さまの夢になりました。やがて三人のお子さまに恵まれ、おふたりはこの夢を叶えられたのです」
1962年11月 「フィリピンへのご訪問前に、しばしのお別れのご挨拶を」
天皇と言えば「孤独」とご本人もおっしゃってましたし、皇太子殿下は3歳でご両親と引き離されて「可哀想な」生活を送っていたというのが定説です。 が、昭和天皇は「3歳までは手元で育てた」とおっしゃっていますし、昭和天皇も大正天皇もそういう育ち方をしていたのですから、それが孤独と思う方がおかしいのです。 東宮だけではありません。常陸宮も他の皇女たちもみんなそれぞれ天皇・皇后と別れて暮らしていましたが、当時の「良家」とはそういうしきたりのものなのです。決して当時の皇太子だけが孤独な生活をしていたとは言えませんし、回りには職員が沢山いたし、遊ぼうと思えば兄弟姉妹がいたのですから、美智子妃がその「孤独を癒す存在」というのはあおこがましいと言えます。 この時の写真は浩宮はベルベッドのロンパースを着ています。大層贅沢ですね。
「行事の合間にふれあいのひととき(1966年5月) この頃の美智子妃は頭を包み込むような帽子を着用。それが流行だったのかもしれませんが、いわゆる「頭髪」にコンプレックスがあったことは確かでしょう。 そしてこの写真は「美智子妃側から美智子妃のみを」撮影しています。通常の「ふれあい」なら浩宮と語り合う写真を出すはずですけど、この写真を出す事にOKした美智子妃の心情として、「私が主役で私が慈愛の微笑みを浮かべているものならよい」としたのでしょう。いかにも作り笑顔なのがすごいですが。
「帰国を待ち望んでいた浩宮さまが風船とともにお出迎え。タイからご帰国(1964年12月) 今風に解釈すると「なんで風船?」です。 完璧に「帰国の歓び」を演出したやらせでございますが、長い事、この写真こそ「浩宮様と美智子さまの幸せなひととき」のような扱いを受けて来ました。 この時も浩宮の姿は後ろで、主役はあくまで美智子さま。そりゃあ毎日が美智子さまってタイトルなんだし、しょうがないんですけど。 結構ありあわせの風船で、大きさもまちまち、そこまで考えて演出してるならすごいわーーさすが美智子さまだわ。
白銀の世界の中で、家族だけのひとときを満喫して。新潟・苗場国際スキー場でスキーを楽しまれる(1970年3月)
嫌だわ、わたくし、転んでしまってよ。誰か助けて下さらない?という風情の美智子さま。 一緒に滑っている少年が浩宮とすると礼宮と紀宮は?礼宮は4歳くらい。紀宮は1歳くらいで普通の親ならスキーを楽しむどころの騒ぎではないんですけど。 っていうかこの頃はまだまだスキーはセレブの遊び。見せつけられているようです。