今時のスマホってユーザーの好みを把握して、読みたそうなニュース記事をアップしてくれたりしますよね。私の場合は皇室とか宝塚とか日韓問題とか投資の話とか・・・
そうやってニュースに出ればアクセス数も稼げるし、いいなあ・・・羨ましいなと思ったりもするんですけど。私のブログはgooちゃんに嫌われているのかもね。
それはそれとしてタイトルだけは読むようにしているんですけど、今時、ファンモードじゃなくてしっかり「宝塚」を芸術として語ろうという気概がある人がいることに驚きます。
荒らしが怖くないのか?と思ったり。
私が自分のHP「宝塚レビューパレス」を始めた頃はそりゃあもう、荒らしが多くて。一々傷ついておりました。「〇〇さんの悪口を書かないで下さい」とか「偏っている」とかね。悪口じゃなくて批判なんだけど、その区別がつかないヅカファンは今も昔も多いです。
ある方のブログで「駄作問題」が語られていて、それはっちょこっと読んでみたんですけど、今も昔も変わらないなと思いました。
去年はオリジナル作品がいつになくいい出来だったと思うのですが、その方はそうは思わなかったようで、海外ミュージカルに頼るんじゃないよーーみたいな。
宝塚が芸術として盛んに語られた時代
これは2つあり、一つは昭和初期と、1980年代です。
昭和初期、宝塚少女歌劇が20周年を超える頃には男役や娘役の「型」も決まってきて、人気も不動。そして観客の半分は男子学生でした。彼らは一生懸命という必死すぎる程に「少女歌劇」の在り方や未来を語っていました。
「少女歌劇なんだから難しい作品をやる必要はない」「少女歌劇とはいえ芸術なんだから挑戦すべき」とかね。
1936年に東郷静男によって上演された「ゴンドリア」は「宝塚らしくない」と徹底批判を受けました。どんな作品だったのか見てないのでわからないけど、他にも「モンテ・クリスト伯」など、果たしてそれが宝塚なのか?との疑問はあったようです。
作品のよしあしに関する批判も多くて、今よりずっと辛辣で愛があるものでした。
1980年代は宝塚のベル・エポックというか、「ベルばら」ブームが去ってちょっと集客が落ちて来たころ、正塚晴彦や小池修一郎といった異色の演出家の登場によっていわゆる「宝塚らしくない」作品が容認されていきます。
恋愛よりも自然を愛するとか人間愛とか反戦とか・・そういうテーマが許されるようになったんですね。ロマンチックやドラマチックもいいけど、愛も恋も語らない宝塚があってもいいと。
その流れが1990年代まで引きずりました。
「エリザベート」以降のオリジナルは駄作だらけ
震災後の宝塚を救ったのは小池修一郎潤色・演出による「エリザベート」です。
理事長も植田紳爾という演出家出身者が就任する事になり、さらに「阪急の箱入り娘」から「独立独歩」を言い渡された宝塚歌劇団はこれまでの「いくらお金をかけてもいい」状態から「経費削減」「生徒の新陳代謝」を図る必要性に迫られました。
柴田 侑宏氏が病気で作品数が減り、若手を起用。木村信司・植田景子・斉藤吉正・藤井大介・荻田浩一・大野拓史・中村一徳・小柳奈穂子・児玉明子らの作品が目立つようになる。
所が、いわゆる王道の宝塚歌劇を理解していたのは藤井大介一人で、あとは「自己主張」だらけの作品ばかり排出され、さすがの植田理事長も「宝塚らしい作品をかけ」と苦言を呈するように。
後に、斉藤吉正はしっかり宝塚歌劇団の座付き作家として体制側の人間になりますが、荻田浩一は劇団を去り、他は駄作を排出し続ける有様だったのです。
「新専科制度」「宙組誕生」「スカイステージ」で迷走する宝塚
宙組誕生により、4組から20人程が組替えになって、各組が60人くらいになりました。その当時のしょぼさと言ったらありませんでした。宝塚は人海戦術なんだなあと感じました。
とはいえ高学年の生徒が増える事に危機感を覚えた植田理事長は「新専科制度」を作り、2番手と3番手を枠外において組内2番手の地位を上げようとしましたが失敗。
スカイステージが始まってみんな嬉しかったけど、目玉の東京公演千秋楽映像はひどいものばかり。
1998年以降の宝塚は悲劇と迷走が続く暗黒の時代と言えましょう。
また、トップ人事にしても、あからさまにスポンサーや有力な実家の後ろ盾、宗教界などが重視されるようになって実力主義からは離れていきました。
新東京宝塚劇場の開場により、拝金主義は留まるところを知らず
それまで宝塚には「さばき」というシステムがありました。
財布を持って劇場前に立っていると、余ったチケットを定価で売ってくれる人がいるんです。
のどかと言ってはのどかですが、今じゃ考えられません。
東京宝塚が新しくなると同時にチケットもネットで販売する事がメジャーとなり、ヤフーオークションで値段が釣りあがって行く事になります。こうなると貧乏人は手を出すことが出来なくなります。
チケット代も6000円時代からあっという間に8500円時代へ突入。
色々問題ありの植田理事長から4代目小林家の理事長はそもそもが力不足と言われていましたが、結構間違った政策ばかり取って客足を落としました。
そして今の小川理事長がいるのです。
小川理事長が嫌われるわけ
1 観客の差別化を図る
2 ファンクラブを潰そうとしている
3 金・コネにまみれて娘役人事を行っている
これに尽きますね。
1の「観客の差別化」というのは、歌舞伎座も同じで、新しくなった歌舞伎座の最低料金は4000円。チケット代があまりにも高くて若い歌舞伎ファンは通えなくなっている現状がありますが、一方で外国人や団体の集客で歌舞伎座は盛況です。
宝塚も同じです。東京宝塚劇場は回転率が100%近いのですが、それでも平日の夜や日曜日などの集客を何とかしたいと思っていたようで、そこに団体や貸し切りを投入。
宝塚劇場ならそれでもいいのですが、東京ではわざわざ団体を入れなくても沢山、ファンがいるのです。それにも関わらず毎日団体と貸し切りを入れるのでファンクラブにチケットが回って来なくなります。
おまけに転売目的で一般前売り前から複数のチケットを買う人がいるので、ますますチケット難になるのです。法律なんかあってなきがごとし。
せっかくファンクラブに入っているのにチケットが手に入らない。それなのに「お茶会と会服を買わないとチケットは回せない」とかいう所もあり、貢献度の高い人しか公演が見られないという状態。
つまり小川理事長は「阪急のみならず数々の会社と提携を結ぶ事によって貸し切りを行うことで席は完全に埋まる。席が空いてもそれは旅行会社に負わせる」といううま味を得られるのです。
また2のファンクラブを潰そうとしているというのは。
植田理事長の時代には、ファンクラブの会員数や、お茶会に参加する人の数、入り待ち出待ちの人数すらスターの人気を測る構図となっていたこと、チケットの大多数がファンクラブによってさばかれていた
ということがありますが、小川理事長はそういうものはあてにしていないようです。
むしろ、通行人の邪魔にしかならない入り出の人数を減らせないかとか、歌劇団とファンクラブの距離を開けようとしているような感じがします。
企業側からみると、ファンクラブは素人集団にしか見えず、彼らがスターをマネジメントしてお金を集めるなんて危険極まりないことなんでしょう。
じゃあ、チケットを公平に分配すればいいのに、どうしたって一般人の手には入らない様に出来ている。
つまり席が埋まってお金が回収できれば、一人何回見ても、席で寝てても構わない。今はライブビューイングがあるんだから生で見る必要もないでしょう。貸し切りも団体もファンクラブからも落ちこぼれる一般人は映画館で見てね・・・ということ。
これこそが拝金主義と言えないでしょうか。
東京ではあまりわからないけど、本拠地へいくと宝塚歌劇の観客にはヒエラルキーがしっかりと存在していて、身分違いの人達は交流しないという見えない壁を感じます。
関西は劇場内にレストランやカフェがあり、そういうのがわかりやすいんですけど東京は一見してわかりにくい。
けれど、劇場に通っていれば、毎日のようにど真ん中で見ているご婦人が一定数いることに気づかれるでしょう。
「私は真ん中しかみないのよ」
「〇〇さんの所からチケット頂いているから」
と平気でいうお方もいらっしゃって・・・笑うしかない状況なんですよ。
勿論、そういう方は定価でチケットを買っているわけじゃございません。
お花代は2万3万が当たり前。そうやって貢献しているからこそ手に入るチケットなんです。
私が毎年「今年こそ宝塚をやめる」と思うのは、どうせ見るチャンスがないものという諦めの心境なんですけどね。今は宝塚にかまっている時じゃない。自分達の老後を考えなきゃと言い聞かせるものの、やっぱりご贔屓さんの舞台は見たい。でも見れない・・落ち込む。の連続です。
来月、姫は大劇場に行きますが、半年後には「ママも行くんだよ」と私にいい、ぎょっとしてます。
また大金を使う羽目になるじゃないかーーチケット取る為にいくら使うんだよーとへそくりがゼロになる日を案じる毎日です。
駄作から抜け出した宝塚
話を戻して。
その方のブログでは「近年の最高傑作は「神々の土地」妥協しても「メサイア」「異人たちの夏」と書かれていて、半分共感、半分「?」でした。
宝塚歌劇は今、オリジナルよりも海外ミュージカルへ依存しています。
それもこれも「エリザベート」「スカーレット・ピンパーネル」「ロミオとジュリエット」などウィーンミュージカルとフレンチミュージカルのヒットによるものです。
一方でオリジナルと言えば、大御所になりつつある木村信司や植田景子が全く振るわず、私はあの二人は歌劇団にいらないと思っています。野口幸作もワンパターンを続けるなら先がないでしょう。
宝塚芝居の脚本で一番大事なことは「トップコンビを引き立てること」で、木村も植田もそこらへん、ビジュアルが引き立てはいいと勘違いしている感じです。
でも、斉藤吉正だけは駄作なりに当て書きが出来る人になっているので評価します。
また宝塚は戦前も今も日本という国の国策歌劇団の面もあります。
かつて香港や中国で公演し、今は台湾というのも国と国との関係なしにはあり得ない事です。
「I AM FROM AUSTRIA」を上演したのも、2019年が日伯150周年記念の年で、どうしても上演する必要があったからです。一方で一つの版権を買うとさらに2つ3つの版権を押し付けられるのも常で、その中に「アナスタシア」も入っているのだろうとの推測が出来ます。
私は、何でも自前が自慢の宝塚であれば、オリジナル作品を海外に発信すべきと考えます。
「スカーレット・ピンパーネル」は原作より面白いと言われているし、「ひかりふる路」や「CASANOVA」なども十分にヨーロッパ等で通用するのではありませんか?
海外ミュージカルを宝塚版として変革できるようになったのだから、今度は宝塚歌劇をウィーンやフランスに売り込む時代に来ているのではないかと思います。