東宮御所は大騒ぎであった。
侍従や女官たちは上を下に大騒ぎであっちこっち駆け回り、やれ電話、やれマスコミ、やれ政府だと大声で叫びたて、「東宮妃を刺激しない」事に全精力を費やしている。
「紀宮」(きのみや)懐妊の知らせを受けた東宮は読みかけの新聞をぐしゃぐしゃにして、みていたテレビも消した。
「どういうこと?誰がそんなこと、許したの?」
何となく、唇がわなわなと震えているような雰囲気で、侍従は東宮のお顔を見上げることも出来なかった。
「確かなようで。二宮邸に問い合わせた所、両陛下と東宮にお知らせする前に国営放送に報道されてしまったと申し訳なさそうに・・・」
「本当なの?じゃあ・・・本当なの?」
東宮は椅子から立ち上がった。
「はい。大層おめでたい・・・」
「めでたくない。めでたくないでしょう」
東宮は怒りのあまり顔を真っ赤にして叫んだ。
と、同時に遠くからガシャーンと物が壊れるような音がした。東宮と侍従ははっとドアの向こうをみやる。
「ああ・・・」
東宮は崩れ落ちるように椅子に座った。慌てた侍従はすぐに女官に「茶を」といいつける。
そこに東宮は「ブランデー」といい、侍従が止めるのも構わずブランデーを運ばせた。
東宮御所は今や傷だらけの建物になりつつあった。
せっかく、内親王誕生の為に大改築をして内親王の部屋には転んでも痛くない様にコルクを敷き詰めたというのに、たった4年の間に壁が細かい傷だらけになってしまっている。
食器や調度品、いくつ壊れたろうか。
あれはもう病ですのでほおっておくしかございません。下手にお止めすると気を失ってしまわれますと侍医に言われたこと。
東宮妃は、心に傷を負うとそれを言葉表現しようとしない。
語彙が少ないのか表現のしようがないのか、かといって抑えることもしない。
ただ、回りに物を投げつけたり、罵詈雑言で女官を傷つけたり、そんな事ばかりだ。
この東宮ご本人ですら、妃宮(きさいのみや)には手も足も出ず、ただ黙って時間が過ぎるのを待っているというのに。
「おたあさま・・・おたあさまはご存知なの?」
かぼそい声で東宮はお尋ねになる。
侍従は平伏したまま答える。「お知らせはこちらと同時かと」
「おたあさまが何とかして下さるよね」
二宮にゆうなの君が生まれてから「東宮妃より先に懐妊してはならぬ」とお命じになったのは他ならぬ皇后だから。
「ゆうなの君を懐妊した時も、成婚まもない東宮妃を差し置いてと色々言われたでしょう。「紀宮」(きのみや)が心を平安に保つには懐妊しないことが一番。東宮妃が無事に男子を上げる時まで遠慮するのが賢い」と。
なのに、それを破った?
あの東宮大夫の「二宮に第3子を」というひどい発言のせいか。
女一宮を得たものの、皇室内には「第二子を」という声が大きかった。けれど、東宮妃はきっぱりとそれを断ったのだ。
理由は簡単。「もうあんな思いはしたくない。子供を産むための道具じゃない」と妃が強く主張したからだった。
御実家からの説得もむなしく東宮妃はがんとして譲らず、結局女一宮のみになってしまった。それに対する世間の批判も多い。
東宮は妃と離婚して別な女性と再婚すべきとの言葉すら出てくる始末で、東宮はつくづく心のやりどころがなくなっている。
そんな事が出来たら幸せかも。でも、今、妃の御実家の後ろ盾を失えば生きていけない。
「お妃さまが」
女官の知らせと同時に髪を振り乱して入って来たのは東宮妃その人だった。
妃はテーブルの上のブランデーを一瞥すると、「私はワインが飲みたい」とおっしゃる。
黙って女官たちは下がり、やがてワインを持ってきた。
「あの・・・」
東宮は何と言ってよいかわからなかった。
この所、体調のよい時も多くて(つまり機嫌がよい状態)女一宮と一緒に親子3人、レストランで食事をする事も可能だったのに。
「二宮のことは」
「明日、何か公務があって?」
唐突な質問に東宮はうろたえた。
「えっと・・何だったっけね」
側付きの侍従が平伏したまま「明日は盆栽展をご覧になる予定でございます」と答えた。
無論、東宮一人の予定。
「私も行きましょう」
ワインを飲み干すと妃はきっぱりとおっしゃった。
「え?でも体調の波が」
「その方がいいとお父様がおっしゃったの」
この「お父様」は妃の御実家で、「閣下」と呼ばれている政府内でも権力者である。
「お父様がそうした方がいいというならそうする。それに色々方法を考えてくれてる。楽しいこともね。そうだ。私、女一宮とディズニーランドに行きたいわ」
東宮は笑ったらいいのか、無表情でいるべきかお悩みになり、結果的に「そう」と返事をするしかなかった。
ご自分の気持ちをはっきりおっしゃって妃は満足されたのか立ち上がった。
「明日の準備をしなくちゃ。盆栽なんか興味ないけど綺麗ねって言っておけばいいのでしょう?私が出て行けばみな歓喜して迎えるもの。「紀宮」(きのみや)なんか」
そこで妃は東宮を見つめて笑った。
「目にもの見せてやるわ。無事に産めると思わない方がいいってね」