「おめでとう」
二宮と「紀宮」(きのみや)が参内した時、お上は相好を崩して珍しく大きなお声でそうおっしゃた。
「「紀宮」(きのみや)にご褒美を上げなくてはね」
お上は上機嫌だった。
「お上、「紀宮」(きのみや)は高齢出産になりますのよ」
と水を差したのは皇后。
「勇気のあることね」
と、冷静に皇后はおっしゃった。
「紀宮」(きのみや)は絶えず微笑み「ありがとうございます」と頭を下げる。
二宮は「大姫も中姫も下を欲しがっていますので。でも偶然とは言えあの子達の望みを叶えられそうで嬉しいです」と答えた。
「科学的に見ても最近はそういうの(高齢出産)は多いんでしょう?東宮妃だって38歳だったから。私達の若かった頃とは違うね」
常に生物の研究を欠かさないお上は、客観的にみていらっしゃる。
「そうはいっても、何があるかわかりません」
皇后はそうおっしゃると顔を曇らせる。
「なるべく東宮妃を刺激しないように」とも付け加える。
二宮も「紀宮」(きのみや)も大きく頷くしかなかった。
「東宮妃は8年もの間、世継ぎのプレッシャーを受けて適応障害になってしまったのです。今も女一宮の養育がはかばかしくなく、公務もままならない状態ですよ。あなた達が喜びを顔に出せば、どれだけあちらを傷つけることになるか。なるべく控えめに。顔に出さず。よろしい?」
「それは十分に承知しています。私だって「紀宮」(きのみや)が高齢で出産に臨む事には心配していますし、喜びを顔に出そうとは思っておりません。しかし、これはめでたい事には違いないと思うのです。皇后陛下より励ましのお言葉を賜れば「紀宮」(きのみや)も安心して懐妊期間を乗り越えることが出来るでしょう」
二宮の精一杯の庇い立てと思った「紀宮」(きのみや)は慌てて
「私は十分励まされております。お上もお喜び下さっていますし」
ととりなす。
「私が祝っていないというの?」
皇后はそれこそ悲し気な目で二宮を見つめた。
「私は「紀宮」(きのみや)を心配しているのよ。中姫を懐妊した時、どんな事を言われたの?忘れてしまったの?あんな思いはさせたくないと思うからこそ」
「皇后、二宮は皇統を考えてくれたのだ」
今度は恐れ多くもお上がとりなしを図る。
さすがの皇后もそれ以上言葉を続けることは出来ず、「そうですわね」とお答えになった。「でもお上。必ずしも男子が生まれるとは限りませんのよ。もし女子だったらそれこそ「紀宮」(きのみや)は何と言われるでしょうか」
「誰に何と言われるのかい?」
お上は心底不思議そうな顔をなさる。皇后は言葉に窮し
「色々書かれる時代ですわ」とだけおっしゃった。
二宮はこれ以上「紀宮」(きのみや)に苦しい思いをさせたくないと思ったのだろう。
「本日はご報告まで」と言って立ち上がった。
「食事をしていけばいいのに」と引き留めなさるお上に丁寧にあいさつをして、二宮と「紀宮」(きのみや)は引き揚げた。
二人の背中はめでたい懐妊をしらせに来た宮家の夫婦というより、断罪された者のように丸く、表情は険しかった。
その姿を見送る女官長や侍従長も、あまりの事に慰める言葉もなくたたずむしかなかった。
「何だか、ほっとしたね」
お上はすっかり喜ばれて皇后に頷かれ、優雅にお茶を頂く。
しかし、皇后の心にはざわつきしか残っていなかった。
昔から「紀宮」(きのみや)は優等生だった。ご自分達がまだ東宮だった頃、二宮のガールフレンドの一人として東宮御所に遊びに来ていた頃は、可愛いけれどおっとりした女の子にすぎなかった。
けれど、その「おっとりさ」が希少価値として国民から絶大な支持を得た時、皇后はかすかな怯えと危機感を感じた。
どんな時でも皇室の華形はご自分だと信じて疑わない皇后にとって、「紀宮」(きのみや)の存在はご自分を否定するもののように見えたのだった。
誰よりも美しく豪華で立ち居振る舞いからファッションまで、全てにおいて「完璧」を誇ってこられた皇后がなぜわずか23歳の「紀宮」(きのみや)に危機感を感じられたのか、それは誰にもわからない。
けれど、多分、ご自分にはない「何か」を「紀宮」(きのみや)は持っており、二宮はそんな少女を愛したのだと思うと、それだけで胸の奥底に炎が燃え滾るような気がしておられるのかもしれない。
「紀宮」(きのみや)はどんな時でも微笑みを絶やす事はなかった。
どんなに辛い時でも苦しい時でも、皇后がどんなに厳しくしつけをされても、泣き言一つ言うわけでもなく、翌週には課題をクリアしてくる。
何を責めても、虐めても翌週には・・・文句のつけようもない程に頑張って来る。
「紀宮」(きのみや)から皇后に反抗的な態度をとった事など一度もない。
「はい。陛下」「申し訳ありません。陛下」「精進いたします。陛下」
「紀宮」(きのみや)にとって夫の二宮の存在は絶対だった。そして絶対に二宮の御前に出ようとはしない。そんな控えめにする態度すら、時々腹立たしくなるのだ。
大姫も中姫もこちらが何も言えない程に躾けられて、それは皇后にとっては幸いである筈なのに、どうして・・・
皇統の危機、いよいよ女一宮の立太子を実現し「女帝」を誕生させること。それが旧弊な皇室への大きな風を呼ぶと皇后は信じていらしたが、「紀宮」(きのみや)は見事にそれを崩してしまった。
「昔からなんて忌々しい子なの」
女官長はそのつぶやきには聞こえないふりをしていた。
まさにそんな感情こそが皇后の敗北宣言である事に、まだ皇后ご自身が気づいておられないのだった。