東宮御所には沢山の女官や侍従が詰めている。
およそ50人とも60人ともいえるが、その長に立つのが東宮侍従長と東宮女官長。
「お妃さんは好き勝手出来てええなあ。毎日おするするさんでお元気さんで何よりや」
古参の女官らからは陰でこんな風に言われているのを果たして東宮妃は知っているのか。
「何でも病気のせいにしてはって。うちかて毎日嫌になる時もある。それでも宮中のお勤めや思うて通ってきてんのになあ。何様のつもりや。3代前まで遡れんくせに」
と言い出したのは、さる旧華族の出の女官。
「そこはそれ、お妃さんやから。お妃さんは何よりもお強いのや」
「東宮さんよりお強いお妃さんなんて聞いたことあらへん」
お茶の時間になるとみな口々に言い出す。それというのも東宮妃が病気療養中の看板をかかげてお務めをしなくなってから女官達はすっかり暇になってしまったからだ。
宮中といえば時間をきっちり守り、その通りに動いていると誰もが思っているけれど、この東宮御所では何もかもお妃の気分次第。
朝はいつになっても起きてこない。それは女一宮も同じで食堂ではいつも東宮が一人、テレビを見ながら朝食を食べる。お妃がいいというまで部屋に入ることは許されないので、掃除もままならず。気分がいい時には「お務めに出るから服を用意して」と命令され、この所は「冷蔵庫」と呼ばれる白い服ばかり着る。
女官が気を利かせて「たまには違う色のを」と言えば怒りだし「意味がわからない」と怒鳴る有様である。
「いっつもいっつも白ばっかり着はって。だから冷蔵庫なんてあだながつくのや」
「あら、ひところは「裕次郎」って呼ばれてましたんえ」
「なんで?」
「縦じまのパンツスーツばかり着はるから」
ははは・・・と女官達は笑い出した所に、「失礼します」と入って来たのは歳の頃は40がらみ。すると、女官達は一斉に立ちあがった。
「これはお福さん、出仕のあんたさんが何で女官部屋になんか」
「女一宮様のお目覚めですので」
「おふく」と呼ばれた女性は表情を変えずに横切って行く。
「姫宮様はパンをおあがりになりたいとおっしゃっているので大膳に連絡を」
おふくは無表情のまま、そう言った。
おふくは、最近、東宮家の「出仕」として雇われた女性だった。何でも東宮妃が出た女学校と同じ出身ということで全幅の信頼を得て、女一宮付きになると朝から晩までずっとつきっきりで世話をしている。
「おふくさん、朝はせめて8時にはお起こしせんと。今、何時や思うてますのえ?」
「10時です」
「もうすぐ幼稚園に通う宮さんが朝の10時に起きるやなんて、躾がなってない言われます」
「そうはおっしゃっても女官長さん。東宮妃がそれでいいとおっしゃっているんですから」
「・・・大膳にはご自分で連絡したらええわ」
女官長はふんと言って、みな部屋から出た。
おふくはいつものことと思い、大膳にパン食を用意するように連絡した。
電話の向こうでは「朝ごはんなんですよね?昼じゃなく?」とか「決められたものをちゃんとお召し上がりにならないとお体に毒ですけど」と文句を言われたが全然構わなかった。
女一宮は自分の思いが通らないとすぐにひっくり返ってわめくし、泣くし、そうなったら手がつけられない。でもそれは宮が悪いのではない。これは病気なのだ。
おふくはそう思って割り切っている。
おふくは自分の身分が女官ではない事をよくしっている。
「出仕」は女官より下の地位だ。いわゆる「養育係」にしか過ぎない。
けれど、東宮妃はおふくが来ると肩の荷が下りたように女一宮を預けっぱなしにし、その見返りとして規定の給料以上に収入を得ていた。
「絶対に女一宮のことを口外しないこと」という口止め料も入っていたのだが。
実際に女一宮に接してみると、予想以上に手ごわい宮でいつも思いは一方通行。
それでも時間が経つにつれて「なついて」いるのはわかっている。自分が一緒の時はぐずらないようになった。
それはおふくだけがわかる「あうん」の呼吸だったのだ。
大膳からトーストが届くと早速女一宮の部屋へ向かう。
どうやら今日は食堂へ行くのが嫌らしい。
「宮様、入りますよ」
お福は食事の皿を持って女一宮の部屋に入った。
女官達によってなんとか洗面と着替えを終えた宮はベッドの中に潜り込んでいた。
そう、宮はベッドの中や狭い箪笥の角が好きで、そこへ入ると安心するらしい。
宮の目には自分達大人が、役割を持った人間としてではなく自分に脅威を与えるのかそうでないのか・・という区別しかないような気がする。
そんな宮を幼稚園に通わせるのは至難の業ではないだろうか。
「さあ、テーブルにいらして。私はこっちにいますから」
おふくは食事をテーブルに乗せると、少し離れた場所に移動して座り込んだ。
皿の上には小さい子でも食べられるように薄く切った焼き立てのトースト、ミルクが入ったコップ。それにこの季節ではまだ早いイチゴがのっていた。
女一宮はお腹が空いているようで、ベッドから飛び降りてテーブルにつくと、すぐにトーストを食べ始める。
「宮様、ミルクも飲みましょう。トーストばかり食べていると喉につかえます。まあ、美味しそうなイチゴだこと。砂糖をかけましょうか?」
「いや」
宮は一言だけ言うと、イチゴを掴んでぽいっと投げた。
「宮様。イチゴは投げるものではありませんよ」とおふくは言ったが、床に落ちたイチゴを食べさせるわけにもいかず、仕方なくティッシュに包んで捨てるしかない。
確か、未草君(ひつじぐさの君)がお土産に持ってきてくれたイチゴを投げ捨てた事もあった。
女一宮の中でイチゴは投げるものという固定観念がついているのだ。だったらそれは直しようがないものだろう。
「ミルクはお飲みになりますか?」
「いや」
コップを口元に持って行くと手で弾かれた。コップは宙に浮いてミルクがこぼれる。もうテーブルも床もべたべた状態になってしまった。
これは掃除係を入れなくちゃいけない・・・とりあえずまたティッシュで付近を綺麗にする。
「宮は起きているの?」
ドアの向こうで声がした。これは東宮だ。
「はい」おふくは答え、すぐに部屋のドアを開ける。
どういうわけか東宮は女一宮の部屋に入る時はノックをするか、声をかけるだけで自分からドアを開けようとはしない。それはよい育ちだからなのだろうかとおふくは単純に考えていた。
「宮、おはよう。今日も元気だね」
「東宮様、床がミルクで汚れているのでおすべりになりませんように」
「ああ、そうなの?ミルクをこぼしてしまったんだね。お代わりはいらないの?」
「はあ・・宮様。お父様ですよ。ご挨拶をしましょう」
しかし、女一宮は全く関心を示そうとせずにひたすらトーストを口に運んでいた。
「宮様」
「ああいいよいいよ。おふくさん、いつもご苦労だね。女一宮をよろしく頼むよ」
東宮はにっこり笑って、娘に無視されたというのに不機嫌にもならず部屋を出て行った。
シーンとした時間が流れる。おふくと女一宮だけの束の間の静寂だった。
一方、女官達はようやく朝が来たとばかりに仕事を始める。もう昼に近かったが東宮妃が起きたので何とか食堂に来て食事をして貰い、その間に掃除をさせて貰わなくてはいけなかった。
東宮は自分の部屋にこもってヴィオラの練習を始める。侍従たちもそちらに薄いウイスキーを運んだり、予定を詰めたりと忙しくなる。
3人家族だが行動は全員ばらばらなのが東宮家の日常だった。
「おふくさんはええなあ。女一宮様付きで世話していればいいのやから」
「何をいうてるの。うちは嫌やわ。あんな・・・躾の入らない子。そういえば去年、御所で新年の写真撮影があったやないか」
「毎年のことや」
「そのお写真を撮るのに女一宮さまのせいで何時間もかかりはってるやろ?それで去年の暮れはおふくさんが一緒に御所に上がって、写真を撮る場所にも入らはったんやて」
「そんな。だって出仕は入られへん」
「お上が大層おつむを曲げて「女一宮は一人で写真も撮れないのか」とおこぼしになったそうや。何でもお妃さんが無理におふくを連れて入ってずっと女一宮様のご機嫌をとっていたって。お上もとうとう諦めて「しょうがないね」とおっしゃったそうや」
「大した出仕さんやな」
「そうや。お妃さん付きの女官らも偉いお怒りさんやったとか」
「女一宮というお札があれば最強なんや」
そういって女官達は笑い、それぞれの仕事についていった。