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新章 天皇の母  11

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女一宮の入園式はすったもんあの末、何とか無事に終了した。

制服に手作りのバッグを持ち、延長先生に挨拶をするところでは、ただたあ知らない人への恐怖で体が固まってしまった宮あったが、それは大目に見て貰えた。

「大変自然なお子様です」というコメント付きで。

けれど大変になったのはむしろ翌日からで、女一宮は新しい幼稚園生活に馴染んでいこうという意欲もなければ、朝の早起きすら嫌がる始末。

「女一宮さま、今日はお菓子がありますよ」おふくはベッドから宮を出すときは必ずその手を使った。そうすると宮は顔を輝かせて布団から出てくる。これもまた女一宮の「儀式」の一つになった。

けれど時間通りに通わせるのは難しく、入園早々遅刻が相次ぎ、幼稚園からも注意が来た。いくら皇族とはいえ生活パターンを乱れさせてはならないと。お説ごもっともなのだが、東宮妃にとっては「個性を潰す」行為にしか見えない。

「うちの子にはうちの子のペースというものがあるのに。幼稚園ごときがなぜ口を出すのよ」と毎日のように東宮に愚痴るので東宮は毎日疲れ切っていた。「朝、起こせないのは躾が悪いと思われてもしかなたいんじゃない?」

「私だって朝、起きる事が出来ないけどそれって私の母のせいなの?」

「いや、君は病気だから。そっか、女一宮も病気なんだな。そういえばいい」

「馬鹿な事を言わないで。女一宮が病気な訳ないでしょう!幼稚園が厳しすぎるのよ。一体、あの人たちは私達を何だと思ってるの?偉そうに」

と東宮妃は興奮し、思わず東宮が持っているウイスキーグラスを床にたたきつけてしまったりするものだから、誰もがうんざりしてしまった。

「・・・おふくが悪いのだろう。時間通り起こせないのは。女一宮の面倒を見ているのはおふくなんだから」

「私が女一宮の面倒を見てないとでも?」

「そうはいってないけど、教育係なんだし。誰か、おふくを呼んで。それから床のグラスをかたずけて、新しいウイスキーを」

侍従や女官が飛んできて、床に散乱するグラスの破片を片付けている所におふくがやって来た。

「おふく、女一宮は遅刻が多いようだね」

東宮のご質問におふくは無言で頭をさげた。

「何とか、朝、幼稚園に間に合うように起こしては貰えないものか」

「その為には、夜はちゃんと眠る必要があります。女一宮様の場合はお休みになるのが夜中の12時を回っております。子供は普通8時か9時には眠るものでございますから」

「そんなに夜更かしをしているの?」

「夜になる程お休みになれないようでございます」

「そんなのいいわけでしょ!」

東宮妃は怒鳴った。おふくは顔色一つ変えない。

「申し訳ございません。けれど両殿下は女一宮さまがおむずかりになってもお叱りにはなりません。私がどうしてそんな宮様をお叱り申し上げることが出来るでしょうか」

「それは叱らない子育てを実践しているからだわ。口で言って言い聞かせるの」

「それでも理解出来ないお子はどうなるのですか?」

「女一宮が低能だっていうの!」

東宮妃は思わずおふくに手を上げそうになる。それを止めたのは東宮だった。

「まあ、ゆっくりでいいから頼むよ。幼稚園はなかなか厳しい校則があってね。何とかそれもうまくやってほしい。妃よ、この話はもうやめよう。私は一人でゆっくりしたいんだ」

「あなたはいつもそうよね。女一宮が幼稚園で辛い思いをしているっていうのに、何にも解決してくれないで」

「色々他の幼稚園をあたったけど、結果的にここしかなかったじゃないか。ここなら女一宮は普通の子として生きていけるんだから感謝しよう。おふく、下がっていいよ」

おふくは一礼をして部屋を出て行った。

東宮はゆったりとクラシック音楽をかけ、好きなウイスキーを飲んでいる。

その前に坐っている東宮妃は両手が真っ白に成程こぶしを握り締めている。

一体、何が悪いというの。こんない一生懸命にやっているじゃない。知らない人の前に出るのが嫌なのは自分の方だわ。だけど女一宮の母として頑張っている。この間だってアメリカで使用されている宮に効く薬を見つけたわ。日本では許可が下りないというけど、何とか手に入れて見せる。それであの子がまともになるなら。

そもそも入園式に紺のスーツじゃないといけないなんて誰が決めたの?誰も教えてくれなかったじゃない。だから白のスーツにしたのに、まるで私が非常識みたいな顔をみんなしていたわ。スーツの色が何よ。そんな暗黙のルールを作る方がおかしい。閉鎖的すぎる。

お弁当だって、作った事ないのに作れるわけない。親が作る必要ってあるの?私だって使用人が作ったお弁当を持っていってたんですからね。

ああ・・頭が痛い。とにかく女一宮を優秀にしなくちゃ。そうでなければ「紀宮」(きのみや)の産む子がもし男の子だったら・・・・・

その時、真っ先に目に浮かんだのは怒りに震えるコンクリート卿の顔だった。

「またお父様が嫌な顔をする・・・」東宮妃は考えるのをやめて挨拶もせず東宮妃の部屋を出て行った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「紀宮」(きのみや)は最近、ちょっと体が重いような気がする。

上二人の時にはどんなに歩いても平気だったし、わりと軽々公務をこなしていたのだが、今は、どういうわけかだるさが気になってしょうがない。

「少し、足のむくみがあるようです」と医師に言われ、塩分を極端に控えた食事にされてしまった。

「高齢出産のリスクは多々あります。その一つが妊娠中毒症です。いきなり血圧が上がったりして胎児にも影響がありますから十分にご注意を」

胃の圧迫感は「赤ちゃんが順調にお育ちになっている証拠です」と言われて、それは嬉しかったけど、食欲がなかなか・・・

「どうしてこんなにつらいのかしら」慢性的に不定愁訴が続き、さすがの「紀宮」(きのみや)も宮邸の中では弱音を吐く。

「なんていう事はないの。ただ、重いとか苦しいとか・・ちょっとした事が大きく感じられて。我慢していると辛くて泣きそうになるの」

「それはマタニティブルーというものですわ」

と、古参の侍女、「お局」が言った。

「知ってるけど、今まであまり経験した事がないわ」

「そうでしょうとも。大姫様も中姫様も、お妃さまはお若かったし何の憂いもおありでなかった。でも今は違うでしょう?生まれてくるお子が男子か女子か、知らず知らず気に病んでおられるのでは?」

「そんなこと・・・」「紀宮」(きのみや)は顔をそらした。

その前にどんとおかれたのは、白身の魚にご飯少々、ヨーグルトやお茶といった「さっぱり系」の食事だった。

「お子の為には力をつけませんと」

でも、なかなか「紀宮」(きのみや)は手をつけようとしない。

何か不満を言ったら料理人の咎になるし、作り直しなんて事になったら大変だし。そうはいっても、この塩分極力控えめ食事は好きになれないのだ。

お局は「お妃さまの御心の内はわかります。こんなおいしくないもの、何で食べなくちゃいけないのかしら?ああ、イカの塩辛が恋しい」

「私、イカの塩辛なんて知らないわ」

「紀宮」(きのみや)はちょっと怒った振りをした。

「じゃあ、せめて七味たっぷりのかけうどんですか?」

「それはまあ・・・」と言ってから「紀宮」(きのみや)ははっとして首を振った。

「そんな事も考えていません」

お局はやさしく、お妃の前にほうじ茶を出した。

「ご懐妊を2回経験したお妃さまにこんな事を申し上げるのは今更ですが、お子というのは親を食らって生まれてくるのでございます」

その物言いに「紀宮」(きのみや)は心底驚いて言葉を失った。

「お子は親から栄養を吸い取り吸い取り、たとえそれで親が死んでしまっても構わないというくらい、旺盛な食欲を持っているのです。お若い時なら、それでもすぐに回復される。でも今はそうではありません。ご懐妊中も様々なリスクにさらされ、ご無事に生まれても半分体がなくなったようなもの。そこにさらに母乳が・・・」

「脅さないで下さい。私、もう十分に怖いわ」

「紀宮」(きのみや)の目には涙がたまっていた。

お局は構わず続ける。

「今の感情の起伏も不定愁訴も全部お子がお腹の中で頑張って成長している証なのです。お妃さまがされるべきは、なるべくリスクなしでお子をご出産されること。よろしいですね」

「はい」

「ではお召し上がりください。皇后陛下からのトマトジュースはいかがです?」

「味がしない・・体にいいのはわかっているけど。知らなかったわ。食べるという事がこんなに楽しみで苦痛になる事もあるなんて」

玄関の方から「殿下のお帰りでございます」の声が聞こえた。

「紀宮」(きのみや)は立ち上がり玄関まで出迎えようとしたが、宮が入って来る方が早かった。

「お帰りなさいませ」

「ただいま。あれ?「紀宮」(きのみや)、泣いてたの?」

「別に・・・」

「紀宮」(きのみや)はつんと後ろを向いて涙を拭いた。

「「紀宮」(きのみや)様は塩分がないお食事に涙を流されていたのでございます」

「もう、お局ったら、そんなこと言いつけなくても」

「紀宮」(きのみや)の抗議も受け流し、お局はさっさと二宮の着替えに宮務官を呼び、自分は食事の支度にとりかかる。

「さあ、後は下の者にお任せになって「紀宮」(きのみや)さまはお食事を」

「お局がいてくれると助かるね」

二宮は微笑んで着替えに入った。

「紀宮」(きのみや)は言われた通りに席につき、食事を始めた。こうなったらなるべく早くすませてしまう方がいい。それにしても、どうして毎日がこんなに辛くなったのだろう。

毎週のように目にする新聞の広告欄には、惨いことばかり書かれている。

「喜べない」とか「東宮妃がおかわいそう」とかそんな言葉が並ぶ度に傷つき、落ち込んでしまう。

二宮は庇うでもなく、週刊誌に文句を言うでもなく黙っている。

「紀宮」(きのみや)は誰にも言えない傷を自分で何とか昇華しなくてはならない。

今はお腹の子が元気でいることが何よりも楽しみ。そうはいっても「紀宮」(きのみや)も一人の人間であったし、女性である。

少しは「おかわいそう」の一言も欲しくなる。「勝手に懐妊したくせに」なんて言われる筋はない筈。

けれど、生まれつき気が強い「紀宮」(きのみや)は弱音を吐けない性格だった。

公務に出続けるのも半分以上は意地だったし、絶対に健康な赤ちゃんを産んでやろうという気概に他ならない。

「まあ、全部お召し上がりになったんですね。素晴らしい」

お局は喜んで食事の皿を下げた。

けれど「紀宮」(きのみや)の方は胃の重さに頑張って耐えるのみ。

「宮様にお願いして、無事ご出産のみぎりは思い切り辛いものをごちそうして頂くのはいかがですか?」

「私、そんなに辛党ではないのよ。普通に塩分が欲しいだけよ」

「そうですか?じゃあ、思い切りぬか漬けをお召し上がりになればよろしいですよ」

「きゅうりとかにんじんとか白菜とか・・・」

「そうですね。菜園のお野菜を使って今から準備いたしましょうか。私はぬか漬けは出来ませんけど、詳しい者はおりますし」

「そうね」

「紀宮」(きのみや)はちょっと嬉しくなった。子供が生まれるのは秋。秋の実りが自分を喜ばせてくれるかもしれないと思うと、ちょっと嬉しくなったのだ。

「何の話だい」と二宮が食堂に入って来た。

「出産後に、おいしいぬか漬けを食べたいわねってお話を」

「それはまた・・・いい酒の肴だなあ」

二宮は微笑んで、出されたお茶をおいしそうに飲む。

「紀宮」(きのみや)の懐妊がわかってから、二宮は酒とたばこを断っている。

そう・・この方はそういう形でしか愛情を示せない人なのだ。

「体がきついなら少し大学寮の務の家に行ってはどうだ」

大学寮の務というのは「紀宮」(きのみや)の実家の事だ。

元々学者の家で、ひょうひょうとした人柄が愛されている大学寮の務は、ある意味「紀宮」(きのみや)とよく似ていた。

「両親も歳をとっていますので、そんなに迷惑はかけられません。それに今は弟の結婚式も近いですし」

「そうだった。準備は整っているの?」

「はい。ありがたい事に、結婚式のあとは皇后陛下から謁見を賜ることが出来るとか。その時の服装や小物など誂えなくては」

「忙しいが、君のたった一人の弟のことだから出来る限り協力しなさいよ」

「はい」

穏やかな時間が流れていく。

その静寂を破ったのは小学校から帰って来た中姫だった。

バタバタと音がして、帰って来たのはわかったがそれきりうんともすんとも言わない。

普通だったら「ただいま帰りました」とあいさつがあるのに。

「紀宮」(きのみや)は立ち上がって、リビングを通り、娘の部屋に入った。

中姫は長い髪を見出し、勉強机に突っ伏して泣いている。

ランドセルは乱暴にベッドの上にほうりなげられていた。

「どうしたの?ご挨拶もなく」

「紀宮」(きのみや)は優しく中姫の顔を覗き込んだ。すると中姫はいきなり「紀宮」(きのみや)にすがりつく。ただごとではない様子に押し倒されそうになりながら「どうしたの?一体・・」と尋ねる。

「私、生まれてきてはいけなかったの?」

突然の言葉だった。

 

 


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