あれから9年ですか・・・本当に時が流れるのが早くて。
9年前の3月11日は関東も寒かった。あまりに揺れがひどくて外に出たら数分もいられなくて。それに持病のぜんそくが出てしまい、慌てて薬を飲みに帰る始末。自分はこういう予定外の事に弱いんだと実感した日でした。
あの時もスーパーで水や食料がなくなる事態が起きました。
缶詰などが倍額で売られていてびっくりしたり。ジュニアと姫が水を求めてあちこち歩いた事もありました。
当時、保育園の卒園式を迎えるルドルフ。無事に卒園式を迎えられるのかとびくびくしていたものです。そして今、卒業式は出来るけど省略形。入学式もどうなるか。つくづく気の毒な年代だなと思いました。
仙台にいる幼馴染たちに何もしてあげられず。無論、郡山宮夫妻にも電話するのが精一杯。安全圏にいることが罪悪感でした。
今もって劇場のロケットが苦手。なぜって床が揺れて怖いんですよ。3月19日に雪組を見に行った時も地震が起きて1階席だったからまだ耐えられたけど2階席だったらパニックを起こしていたんじゃないかと思います。
そして原発事故。民主党政権は最悪でしたね。今、安倍総理にあれこれ言える立場じゃないと思います。
あの時も東北では福島からの避難者を受け入れない・・・なんて事がありました。今は「関東人は来ないで」すっかり同じ。閉鎖的なのはいつまでも同じです。
冷静に見て、福島県の宣伝力の強さと宮城県の寡黙さが際立ったと思います。
元々福島県って会津若松を観光地として前面に打ち出し「我々は賊軍ではない」という主張を旨に、会津若松市そのものがまだ戊辰戦争から抜けてないと思わせる程の入れ込み具合なんですよね。鶴ヶ城を建て直したのも早かったし。
それに比べて宮城県って伊達政宗や青葉城があるにも関わらず、バス道路に案内図も出さないような土地柄だったんです。大河ドラマで「伊達政宗」をやってもなおそんな感じでした。
福島の「さすけねえ」「がんばっぺ」という合言葉や福島出身の俳優たちのアピール力がものすごくて、原発事故があった双葉町はすっかり悲劇の町になっています。
「原発でかなり町おこしになったのだ」といことを言った学者は消えましたし。
確かに原発事故はあってはならない事だったし、誰もそんな事を考えてもいなかった時代。それでもかなり東電からの恩恵は受けていた筈です。今もってその恩恵に与る人達もいます。
宮城県は三陸沖で40メートルもの津波に襲われて、町一つが丸々消えてしまう程の日を受けたのですけど、いつの間にか「3・11」というと「地震と原発事故」みたいなイメージになってませんか?
津波に襲われた街だけではなく、宮城県全体が、岩手も同じように被害を受けているのですけど・・・と思ってしまいます。
まあ、サンドウィッチマンのおかげで段々と宮城県にもスポットが当たってくれてありがたいけどね。
今も、当日の夜、真っ暗な体育館で放送局の明かりだけが頼りの避難者を思い出すと胸が痛みます。雪がひどく降っているのに、外のドラム缶で火をたいているだけ。生きていても地獄だったろうなと。私などきっとあの場にいたらすぐに肺炎を起こして死んでいたかもと思ってしまいます。
寡黙に耐え続ける東北の人達の心の強さには感服するところがあります。
そういえば岩手で津波の映像を見て「おーっ」といい、2度もリクエストしたおバカな皇太子夫妻がいましたっけね。
3・11の直後「雅子さまと愛子さまは無事」のテロップ、忘れません。
そして真っ先に被災地へ行くべき人がぐずぐずと行こうとしなかった事も。
4月に東宮御所でお楽しみ会をやったことも忘れませんからね。
9年目にコロナウィルスで式典がなくなるなんて思いもしませんでした。
何だか、令和の日本を見ないで済んだ人がちょっぴり羨ましい・・・このごろです。
でも忘れませんよ。あの日のこと。
地震の揺れがどんなに大きかったか。津波というのはあっという間に飲み込むものだということ、そして福島に住む郡山宮夫妻は9年経っても元気です。
アメリカのドラマでは「フクシマ」といえば放射能の別名で、ひどい言い方をされています。そんなドラマが多い中「HAWAII FIVE-O」だけは好意的に扱ってくれてありがたかったです。