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Channel: ふぶきの部屋
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新章 天皇の母16

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女一宮が通う幼稚園の職員室では重苦しい空気が漂っていた。

髪をひっつめ、首から老眼鏡を垂らした妙齢の園長は厳しい顔で担任達に視線を落とした。

「お話があります」

仰々しく園長は切り出した。幼稚園の教師になって半世紀。

恐れ多くも皇族方の通う幼稚園の園長に引き抜かれてからも20年以上。

誰よりも厳格に伝統に従い、それを守って来た。

その「伝統」の継承こそが、この幼稚園が女一宮を最後に皇族の入園が途絶えるかもしれないという危機の中にあってのプライドだった。

(まだ二宮に生まれる親王か内親王が残っているけどそれでもあと5年も待たなくてはならないのだ)

今や、幼稚園・幼稚舎と呼ばれる所も偏差値で分けられる時代。

この幼稚園の偏差値は決して高いとは言えないが、家柄のいい、しつけのいい女子と男子が通う、他の幼稚園とは一線を画している高貴さがあった。

それもこれも、創立以来の伝統と格式を守って来たからだ。

「明日から、女一宮様が登園の際は職員全員が門までお出迎えに上がります。宮様は園内まで車で入られます。送り迎えは女官ないし東宮妃様、あるいは東宮様になります」

職員達はちょっとざわついた。

ここは先帝も通った幼稚園だった。

雨でも傘を自分でさして歩いて通うようにしつけられた場所だった。

以来、皇族と言えど特別扱いはしないというのが「伝統」になった。

今上も東宮もそうやって通って来たのだ。

「女一宮様はお箸をお使いになりません。お弁当の時はスプーンで召し上がります。そばにはおふくさんが付き添います。お弁当箱の片づけも全てお福さんがなさいます。お帰りは門の中まで車が入ります」

「それって・・女一宮様だけなのですか」

一人が質問した。園長は深く頷く。「そうです」

「それでは他の保護者からクレームが来るのではありませんか。我が幼稚園は4歳で入園する時には排泄が自分で出来ることや、お箸を使ってお弁当を食べることなどが定められています。というか、そういう子しか入って来ないわけで。それなのに女一宮様は何もお一人では出来ません。私達がお手伝いしようとしてもすぐにおふくさんが手を出します。私達もそういう光景を見ていていい気はしませんし、子供達も同様です」

「正直、クラス崩壊が起きかかっています」

女一宮が入園してまだ2か月やそこらでもう「クラス崩壊」とまでいうのは大げさではない。

子供というのは、どんなにしっかりしつけられていようとも、回りにそれを乱す者があればすぐにそっちへ向いてしまう。

一生懸命に慣れない箸を使っている横で女一宮が手づかみでおにぎりを食べ始めたら、当然自分もその方が楽だと思う筈。

 

それだけではない。

幼稚園では「歩いて登園」を奨励しており、送り迎えは「母親が行う」ときっちりと決められていた。

もし、そこに父親が来ようものなら「なぜ母親が来ないのか」と説明をしなくてはいけない。どんな時も「お子様の事を行うのはお母さま」でなければいけないという原則がある。

また、門から下駄箱までは歩いていく。そこで職員に会ったら「ごきげんよう先生」と挨拶をする。頭を90度に下げるというのも伝統だ。

通常の幼稚園に比べると教育水準は高く、ひらがなや漢字の習得にも力を入れるし、お絵かきも水彩絵の具や油絵の具を使うなど多彩な趣向になっている。

排泄は自分でトイレに行くこと。失敗したら自分で先生に報告しそれがすぐに保護者に伝わり、こってりしぼられること1時間。子供が粗相をするのは心理的な問題がある場合を考え、「前日何か問題はありませんでしたか。夫婦喧嘩などしていませんか」などプライベートにも踏み込んで話をする。

勿論、そういう事を聞かれるのは保護者としても嫌だ。嫌だから殊更に排泄には気をつける。そうやって緊張感あふれる幼稚園生活を乗り切った者だけが他の私立小学校などへも進学出来るのだ。

内部進学と言えども厳しい。

そもそも私立に入ると言うのはそういう「競争」を勝ち抜かなければいけないことだから本人も保護者も必死になる。

「クラス崩壊とは」園長が厳しい目を向けた。

思わず口にしてしまった教師は焦ってしまう。

「申し訳ありません。ただ、いつも女一宮はかなり自由に動き回られるので、他の子供達が影響されてしまうのです。歌の時間やお遊戯の時間もそろいませんし。お昼などもおふくさんがつきっきりになるので他の子供達からずるい」なんて言われて・・」

先生の顔は憔悴しきっていた。

「これ以上、特別扱いをすれば保護者が黙っていません。園長先生」

「何か聞かれたら」

園長は動揺せずに行った。

「女一宮さまは東宮家の姫だから特別扱いするのだ」といいなさい」

その言葉に教師たちはびっくりして言葉を失った。

「東宮家は特別なのです。東宮家だけは何をしても許されるのです。女一宮様はお箸を使えません。一人でおトイレにも行けません。でもそれを受け入れるのです。あとはおふくさんが何とかしてくれますから。もし東宮妃が送り迎えに来た場合は職員全員でお辞儀をしてきちんとご挨拶します。いいですね。それと私達の幼稚園では帰りに寄り道を禁じていますが、東宮家とその学友達は別とします」

まさに信じられいといった風情で職員達は聞いていた。

これでは民主主義もへったくれもない。堂々と「特別扱い」を認めるなんて。

「よろしいですね。ではお話を終わりにします」

一方的に打ち切って園長は職員室を出て、園長室に入った。

先生たちの反発はよくわかる。もっとも落ち込んでいるのは自分だ。

園長はがっくりと肩を落とし椅子に坐り込んだ。

誰よりも厳しく伝統を守って来た自分がこうもあっさりと信条を翻さなくてはならないとは。

(あなたを園長の座から引きずり下ろすことなんて簡単なのよ)

あの日、東宮妃はこの部屋で足を組んで座り、恐ろしく怒った顔つきでそう言った。隣に座っていた東宮はおろおろして使い者にならないおもちゃのようだった。

(私達は将来帝と后の宮になる身で女一宮は皇女になるの。身分が違うのよ。それなのに女一宮が出来ないことを決まりにしているなんておかしいと思わない?これは完全なる嫌がらせだし、虐めよ)

そう言って妃はとなりの東宮の手をぎゅっと握った。

東宮は額に汗をかきつつ、うすく微笑んで

(妃は病気で朝、起きる事が出来ない時が何度かあります。そういう場合は僕が送りをしたいのです。勿論泊りがけの公務がある日は女官に任せたりしますが出来るだけ僕が。それを許可して頂きたいのです。それと・・・お昼のお箸を使うのは女一宮にはまだ無理です。無理やり教え込んでも却ってダメなこともあるでしょう。僕もそういう事で色々あり、トラウマになったりしていますから)

園長は心の中で目の前の二人に恐ろしくも下品な言葉を投げたい衝動をじっと抑え込んだ。

(妃の体調がいい時には遠出もさせたい。だから幼稚園の帰りにあちこちへ寄ることもお許しいただきたい。それもこれも病の為なので)

呆れて言葉も出てこない。最初から女一宮にはこの幼稚園は無理だったのだ。なぜそれを認めないのだろう。その方が楽だろうに。

殊更に「うちの子は普通。幼稚園がおかしい」と言い募る東宮妃の論理は古い時代の園長には理解しがたいものだった。

(女一宮が可哀想よ。幼稚園のせいで入園してから何度熱を出して休んだと思うの?厳しくされすぎて怯えているんだわ)

そして東宮妃は大声で泣きだした。

園長は驚いて体が震え、涙を拭くティッシュの箱を思わず妃の方に押しやった。今までにも感情的になる保護者は何人もいたけれど、ここまで自己中心的に上から目線の人には出会ったことがない。

「自分達は特別」と堂々と言いきることが出来るなんて。恥知らずというかなんというか。

(二度と幼稚園に来させなくてもいいのよ。でもそうなったら困るのはだれかしら)

ティッシュで目を抑えながらもその奥から鋭い視線を投げてくる。

園長は心底怖くなってしまった。

(わかりました。検討いたします)

そう答えてから約1時間も東宮妃は同じことを言い続けた。

東宮妃の全身から有り余る程のエネルギーが放出されて、その圧力がじんじんと身に伝わって来る辛さを感じた。

よくもまあ、こんなしつこい女性と東宮は結婚したものだ。

自分が少しでも失敗すると全人格を否定されたように感じるらしい。それは娘も同じで、自分と娘を同一視しているようなところがある。

コンプレックスを払拭する為にはひたすら努力するしかないのだが、そいうう事は嫌いらしく、手っ取り早く権力を使って満足しようとするのだ。

東宮夫妻が帰ったあと、暫くして初等科長から電話があった。

この初等科長はコンクリート卿の一派だったので、ダメ押しの電話をかけてきたものと見える。こうなるともう逆らうことは出来なかった。

卒園するまで・・・この屈辱に耐えなくてはならない。

園長はじっと身を縮み込ませていた。

 

 

 


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