その日の朝。
空はどんよりと曇り、いつ雨が降り出すかもしれないというほど雲が厚くたちここめていた。
しかし、その雲の中に「龍」が現れると、それを目撃した人達は「瑞雲が出た」「これは吉兆」だと思い、大いに盛り上がった。
「行ってまいります」
「紀宮」(きのみや)は手術室へ向かう時、見守る二宮にそう言った。
二宮は「ああ、行っておいで」と送り出した。
手術室の前にはピストルを携帯した女性警官が四天王のように立っている。
まさに今から生まれ来る神を警護するかのような神々しい姿だった。
二宮はどんよりとした空を見つめ「お前も苦労するのだろうか」と呟いた。
天気予報ではこの日は大雨、台風のような雨が降ると予想されていたのだが、空は何とかもっていた。
「殿下、瑞雲が出たそうです」と内舎人の人がネットでその雲を見せてくれた。確かに龍の形をしている。
「そう。面白いものが出たんだね」といいつつ、宮はこの雲が妻と子の無事を守ってくれるように祈っていた。
そして、扉が開いた・・・・・
その頃、北の大地に帝と后の宮はいた。
通常、親王の子が生まれる時には御所にいて結果を待つのが慣例であったが、「二宮家の出産はそれほど重いものではない」ということを内外に示す為、あえて帝は地方の公務へお出ましになったのだった。
朝から、后の宮は気が気ではなかった。
帝が「やはり御所で誕生を聞きたかったね」とおっしゃったからだ。
通常の出産はいつ始まるとも言えないが、今回は日付が決まっている。
だったら公務の予定を組みなおしてもいいのではと帝は言いたかったようだ。
しかしそれをお止めになったのは后の宮である。
「生まれてくる子は女一宮とは立場が違います。東宮の子ではないのですよ。二宮は内廷皇族ではありません。なのにお上がそこまでなさったら、東宮家の方が面白く思われないのでしょう」
「東宮の子も二宮の子も私の孫。大姫だって中姫だって私の孫に違いないではないか」
「東宮家に女一宮は生まれる前はそうだったかもしれませんが、今は違います。女一宮は将来帝になるかもしれない子ですよ」
「女子に皇位継承権はないでしょう」
「今後はわかりませんよ。とにかく、初めての子ではない3人目なのですから、お上がそこまで気になさる必要はございません」
后の宮の強い口調に押され、帝は後ろ髪をひかれる思いで北の大地までやって来たのだった。
「意図的な出産」「東宮家にあてつけ出産」と呼ばれて幾久しい。
そこまでマスコミに叩かれる以上、帝を悪役にするわけにはいかない。
二宮家の慶事は他の宮家と同じ程度でいかなくてはならないのだ。
公務に出る予定は午前11時。
帝は部屋で身支度を整え、朝食をとっていらした。
その時である。
侍従の人が受話器を持って駆け寄って来た。
「お上、二宮様からお電話でございます」
(ついに)
后の宮は自分の手が震えるのを感じた。
お上はにこにこと受話器を受け取り、「もしもし」とおっしゃった。
「男子でございました。母子ともに健康でございます」
受話器の向こうから弾むような声が聞こえた。后の宮は思わずスプーンを落としてしまった。
慌ててボーイがそれを拾う。
「そうか・・・男子か・・・」帝は声が上ずっていた。目には涙が一杯に溜まっている。
「よくやった・・よくやったね。二宮、「紀宮」(きのみや)も。ありがとう。心から憂いが取り除かれていくような心地だよ。あ、そうだ。后の宮にも変わる」
帝はにこやかな顔で受話器を渡す。
后の宮は蒼白な表情でそれを受け取った。回りの目がある。ここはにこやかな顔をしなくては。
「もしもし、おめでとう。「紀宮」(きのみや)の様子はどうなの?産後が大変だからゆっくり休ませてあげて」
それだけ言うのが精一杯だった。
「男の子だよ。后の宮。皇室に41年ぶりの男子が生まれたのだ。これで皇統は繋がった。本当に嬉しい」
「そうですわね」
「早く孫の顔を見たいものだ。二宮には写真で送るように言ってあるがね」
「お上、おめでとう存じ上げます」
「うんうん」
お上は上機嫌であられた。
公務先でもわざわざ「この度の二宮の出産に関して沢山の祝福を貰った。ありがとう」とアドリブで話、会場は拍手喝采した。
すぐに全国的に号外が出された。
「「紀宮」(きのみや)様ご出産。親王様ですよ。41年ぶりの親王さま」
号外はたちまち人の手に移り、驚き、喜び、久しぶりに心が沸き立つような思いをした人が多かった。
天気は相変わらず悪く、夕方にはぽつりぽつりと降り始めたが、それでも天気予報のような台風にも大雨にもならず、人々が号外を手にする時間は妨げられることがなかった。
今や各ビルに設置された電飾ニュースにも、テレビ速報でも、ワイドショーでも「紀宮」(きのみや)が親王を出産した事が伝わり、次々に報道が始まっていた。
二宮家の報道が世間を席巻するなど、ここ数年なかった。
久しぶりの国民的な「紀宮」(きのみや)フィーバーに沸き立っているのだ。
その中で、ただ一人深刻な顔をしているのは后の宮だった。
無邪気に喜ぶ夫を後目に、彼女はいら立ちに負けそうになっていた。
「わざわざ皇室に争いの火種を持ち込むとは。そんなにまでして皇位が欲しいのか」
后の宮の頭の中では、怒りまくっている東宮と妃の姿が目に浮かぶ。
その証拠に東宮が出した「紀宮」(きのみや)出産へのコメントは。
「おめでとうございます。手術が一刻も早く終わりますことを祈っています」というちんぷんかんぷんなものだった。
多分、出産の前からそれを用意して、予定通り出したにすぎないのだろう。
こんなメッセージの在り方に、国民がどう思うかわかったものではない。
どうして、東宮妃はそこまで感情的でバカなのか。こちらが必死に庇ってやっているのに。
しかし、東宮妃の行動はもはや制御不能の域に達していた。
「親王の誕生が皇室に安泰をもたらす?とんでもない。その逆だわ。二宮は皇室にいらぬ争いの種をまいた。それが親王よ」
后の宮は憂い顔で雄大な北の大地を見つめた。
「「紀宮」(きのみや)という子は恐ろしい・・・こんなことを平気でやってしまうなんて。そうまでして皇太后にでもなりたいというの。あの子は私以上の野心家だわ」
このままでは自分の地位が危うくなる。后の宮は本能的にそう感じていた。