親王のお印が「高野槇」に決まり、以後、「若宮」とか「槇の宮」などと呼ばれるようになる。実に41年ぶりの「若宮」誕生に、国民は素直に喜んだ。
「紀宮」(きのみや)達が若宮を連れて退院のおりには、自然発生的に沿道に人が並び、「若宮万歳」の声が上がった。みな頬を紅潮させ、心から国旗をはためかせ、未来の帝の誕生を寿いでいる。
その祝福に手を振って応えながら、二宮も「紀宮」(きのみや)も結婚式のあの祝福の波を思い出していた。あれから幾年月流れたろうか。
うつろいやすい国民の心を思いつつ、ただただ今は、その祝福に、あの頃と同じように素直に応えたかった。
そんな様子を見ながら、中姫は胸をわくわくさせて「弟が宮邸にやてきたら、どんな産着を着せてどんなお世話をしようかしら」と考えていた。
手作りのおもちゃはもう出来ている。お母さまが大変な時は自分が弟を抱っこして、おんぶして、それから色々なことを教えて上げる。中姫にとって若宮は「生きたお人形」のように見えていたかもしれない。
一方、大姫はもうそんな子供ではなかった。
今、生まれたばかりの若宮が肩に背負うものの重さに、姉として「可哀想」と思ったし、一方で彼こそが「希望」なのだとも思った。
大姫は、皇室が変わりつつあり、帝も后の宮も少しずつ以前とは違っていることを肌で感じている。若宮の誕生がもしかして溝を生むかもしれないことを。
沢山の皇室の歴史の中でも、こんな話は沢山あった。
大津の皇子・長屋王・安積皇子・・・・数えたらきりがない程。
古代の物語の話だと割り切れない何かが迫っているような気もする。
だけど、今、一番悲しいのは、大好きなおじいさまやおばあさまの心の中が見えなくなっていることだった。もう小さかった頃には戻れない・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
よく・・眠れない。イライラする。物にあたりたくなる。
東宮妃はどう表現したらいいのかわからない感情に振り回されていた。
女官が「お妃さん、お茶を」と言っただけでも腹が立ち、茶器を壁に向かって投げつけた。東宮は慌てるばかりで、何かといてばすぐに「気鬱の典医を」と言うばかり。
典医と喋っている時は安らぐ。
彼は愚痴を何でも聞いてくれるし、声が優しく、自分に不快な事は一切言わない。
なぜ私はこの人の妻として生きていけなかったのだろうかと思う。
彼が夫ならこんないら立ちを抱えずに生きていける筈なのに。
あれは自分が3歳の頃。
妹達が生まれて母は一切自分に構わなくなった。
父は自分ができそこないである事を知っていたから、口を開けば「勉強」の事ばかり。
あの時の寂しさが蘇ってくるのだ。
コンクリート卿は、若宮誕生の時には怒りをあらわにして「なぜだ!」と叫んだ。
その「なぜだ!」は自分に向けられたものだと思った。
やはり、父上様は私を愛していない。昔のような出来損ないと思っているに違いない。
そんな絶望感が頭を覆うと一層、いら立ちが増す。
たかが子供を産むこと・・・男子を産むこと・・・これが何年も勉強して最高学府を出た自分には大層なハードルだった。頭が悪くたって成績が悪くたって子供は産める。
だったらなぜ父上様は、自分をそのように育てなかったのだろう。
勉強しろ、成績を上げろ、女性だからって甘えるな。そればかりの人生だったのに。
「紀宮」(きのみや)の出産が、東宮妃を全否定したかのように見えて、絶望感ばかりが募るのだ。
「ねえ、先生。私は生まれてきてよかったのよね」
「ええ。勿論ですとも」
「みんなが私を馬鹿にしている」
「そのような思い込みはやめましょう。回りを見てごらんなさい。みな、お妃様の登場を待ちわびているのですよ」
「一人では無理」
「東宮様がいらっしゃいます」
「あの人はダメ。昔も今も私の気持ちなんかわかっちゃいない。もっとも私もあの人をわかっているかと言えばうそになるけど」
「夫婦は理解し合う努力をせねば」
「夫婦じゃないわ」
気鬱の典医は驚いたように東宮妃を見た。
「結婚してあげたのに全然約束を守らなかったわ。外国にも行けなかったし、子供を産むことを強要された。あの人だけじゃない。父上様までが結婚した途端に子供はまだかと言い始めた。女って子供を産む道具じゃないって教わったのは何だったのよ?女一宮を生んだらがっかりされて。あの人は能天気に女一宮を喜んで可愛がってる。馬鹿なの」
東宮妃はさらに興奮していった。
「ハーバード大出の私に偉そうに指図するのよ。父上様がいなかったら何の仕事もないただの男なのに。帝の子というだけで何だっていうのよ」
「東宮様はお妃様を心から案じておられますよ」
「あなたの口からそんな言葉は聞きたくないわ」
すねたように東宮妃は言った。
「今だって。こんな夜中まであなたと一緒なのに咎めることさえ出来ない人よ。話にならないわ。それにしても忌々しい。二宮の所に生まれた槇宮。いっそ・・・」
「お妃様」
典医が止めた。
「今日は薬を処方しますゆえ、ゆったりとお休みください。明日、お妃様がお目覚めになるまで女官には入室禁じます。無論、東宮様にも。明日の予定は全て白紙ということで」
「そうね。でも眠りにつくまではいて欲しい。真っ暗は嫌なの」
「はい」
東宮妃は薬を飲み、こうこうと部屋の灯をつけたまま、まるで騎士のように気鬱の典医を傍に置いたまま眠りについた。