「陛下、そろそろおでましを」
侍従が呼びに来た時、天皇は振り返って微笑んだ。
「ナガミヤはやっぱり無理だったね」
側に皇后がいない寂しさをちょっと口に出してしまった。
骨折以来、皇后はどんどん歩けなくなり記憶もうすれて、今年の新年祝賀の儀
以来、表に顔を出さなくなった。
そして「在位60周年記念」式典にも。
60年・・・・そのうち20年は戦争をしていて、平和な時代が40年続いた。
この40年、天皇にとっては「復興」への道のりに他ならなかった。
大元帥陛下と持ち上げられようと、望んで戦争を始めたわけではない。
あの時は・・・・あの時なりの事情があった。
それを「戦争責任」と呼ぶのだと。
みな、一生懸命やった結果だった。しかしそれは敗北となり、日本は大きな
犠牲を払い、その後遺症は今も続いている。
戦場で空襲で死んでいった人たちは今もって自分を恨んでいるだろうか。
多分、恨んでいるだろう。詫びても詫びても気がすまぬ。
戦後40年。表面上は穏やかに過ごしてきたはずであったが、心の中はいつも
重かった。
ただただ死んだ人々への思いが高じて、ともすれば部屋に引きこもりたくなる程に。
しかし、天皇にはそれが許されない。
「私」がないから天皇だ。
この生き方を貫くしか、彼らへの鎮魂にはならないだろう。
一般参賀には多くの人たちが集まっていた。
自分の為にこんなにも多くの国民が祝福をしてくれる事に素直に感動した。
しかし、それでも気がはれない。
「沖縄へ行きたいねえ」
夕食の席で思わずそう呟いてしまった。
すると皇太子が「はい」と答えた。
「何とか行けないものかね」
「はい。そういたしましょう」
毎年繰り返される言葉。皇太子夫妻は沖縄でテロに合い、危なかった。
その時以来、天皇の沖縄訪問は白紙に戻ったまま・・・・
それほどにと思いつつもそれでも行かなくてはならないのだという思いもある。
戦後の総決算をしてやらなくては次代に譲れない。
「そうそう、ヒロノミヤのお妃選びはどうなってるの?」
あまり暗い話題ではどうかと思い、今話題のヒロノミヤの結婚話をしてみる
事にした。
ヒロノミヤは留学から帰って学習院の修士課程を卒業した。
その後は青年皇族として公務に励んでいる。アヤノミヤも去年、成年式を迎えた。
背が高いアーヤの衣冠束帯姿は光源氏のようだった。
可愛いノリノミヤもすくすく育っているし。
「実は・・・」
皇太子が言葉を濁す。
「どうしたの?何か悪い事でも?」
「いや・・ヒロノミヤは好きな女性が出来たようなのです」
「それはいいね。誰?どこのお嬢さん?」
「それが・・・外務省の外交官の娘なのですが」
「外交官の娘?」
「はい。しかしその娘の母方がチッソの社長でして」
チッソ・・・・あの水俣病を引き起こした。
戦後最大の公害病と言われる水俣病。その会社社長の孫娘?
「チッソは今も係争中ですし、その社長の暴言などがあり、評判もよくありません。
しかしヒロノミヤは」
「結婚は、国民に祝福してもらうようなのがいいね。瑕があるとそれだけ本人も
苦しむことになるし。チッソはダメだね。外交官というのもどうか。政治にかかわりの
ある家から妃を迎える事はよくない」
天皇ははっきりとそういった。
でも何ゆえにヒロノミヤはそんな女性を好きになった?
どれ程の美女なのか?言われてあきらめる様なタイプだったろうか。
「一度、話をしたいから参内させなさい」
天皇はそういった。まだ先のこととはいうえ、ヒロノミヤは将来天皇になる身分だ。
自分の好き嫌いだけで結婚は出来ない。
そのことはきちんと話をしなくては。
「ああ、それとアーヤには分類を手伝ってもらってるからね。アヤメの」
「アヤメ?」
「うん。那須にヒオウギアヤメというのがあってね。それがいくつかに分かれて
いるんだけどなぜそうなったか・・・それを知りたいんだよ。アーヤは熱心に手伝って
くれるから助かるね。あれは植物より動物の方が好きなの?」
「はい。学習院にはそういう科がありませんから法学部を選びましたが、いずれ
留学して動物学をおさめたいようです」
「そう。それはいいね。では日本にいる間にせいぜい那須に呼ばなくてはね」
天皇はにっこり笑った。
孫達は順調に育っている。もう何も言うことはないのだが・・・・