キコの懐妊が発表された時、マサコ的には別にどうでもいいと思っていた。
元より自分は子供を望んでいないのだし、その為の作業もまっぴらと
思ってきたのだから。
しかし、父から電話がかかって来た時、一瞬にして彼女の顔は蒼白になった。
「何で先をこされたんだ?悔しくないのか?」
と。
「アキシノノミヤの子供より、皇太子の子供の方が大事に決まっているじゃないか。
結婚して何か月経つと思ってる?あっちはすぐに妊娠したぞ。今度は二人目だ。
ただでさえ結婚した時期が遅いというハンデがあるというのに、ここで遅れをとって
どうするつもりだ。何を悠長に構えているんだ」
ほぼ怒鳴り声に近い言葉が次々とマサコの心を刺していく。
「だって・・・だって・・・」
「だってもへったくれもあるか。お前は皇太子妃になったからってどれで何もかも
成功したと思っているんじゃないだろうな。とんでもない話だ。男子を産まなければ
意味はないんだ。次の次の天皇の外戚になってこそ、オワダ家は成功したといえる
んだから」
側で夫の電話を聞いているユミコは耳をふさぎたくなった。
自分は結果的に3人の娘を得たけれど、そのせいでオワダ家からは無視され
夫からも半分馬鹿にされている。
マサコが皇太子妃になってくれたからまだ「母」としての面目を保っていられるようなもの。
レイコもセツコも幸いにして成績優秀だから・・まだ・・・あとはいい嫁ぎ先があれば。
「あなた・・・いくらなんでもまーちゃんが可哀そうよ」
「可哀想だって?お前、マサコは子供が産めないからだなのか?」
「そんな事ありませんよ!」
「だったらお前からもよく言い聞かせろ」
電話の向こうで夫婦喧嘩まで始まりそうな気配にマサコは思わず泣き出してしまった。
自分が妊娠しないからって親が喧嘩をするなんて。
はるか昔に感じた「見捨てられ感」がよみがえってくる。
男に生まれなかったから、成績が悪かったから、フタバに落ちたから・・・・
自分は父にとって理想の娘ではなかった。小さい頃、父の横顔がどこか寂しそうで
不満げである事に心を痛めてきた自分。
それがありありとよみがえってきたのだった。
「どうしたのですか?」
心配した皇太子がマサコを見つめる。マサコは慌てて電話を切った。
「何でもないわよ。お父様が怒ってるの。アキシノノミヤ妃が妊娠したから」
「ああ・・」
皇太子は最初、何で怒っているのかわからないという顔をした。わかる筈ない。
皇太子にとっては姪か甥が一人増えるだけの事なんだから。
でも、もし生まれてくる子が男子だったら、皇太子に次いで皇位継承権3位になってしまう。
勿論、その後でもなんでも自分が男子を産めばそれでいいのだが。
でもでもでも、今、確実に自分は傷ついている。
それもこれもアキシノノミヤ妃が妊娠したから。
自分をさしおいて妊娠したから・・・何でそんな事がわからないのか。
「あなたって鈍感すぎませんか?もし生まれてくる子が男だったら皇位継承権3位なのよ。
そしたら私の立場はどうなるの?せっかく皇太子妃になってあげたのに、意味が
ないとか言われるじゃないですか」
「だってマサコ・・さんが自分から子供はしばらくいらないって」
「言ったわよ。言ったけど。それはあっちが先に妊娠するって話じゃなかったから。
こんなの約束違反だわ」
マサコは吐き捨てるように言い、そのまま自分の部屋に駆け込んだ。
後から後から涙があふれてくる。
「悔しくないのか?」父の言葉が胸に刺さる。
悔しい・・・・悔しい・・・悔しくて悔しくて胸が張り裂けそう。
何よ。アキシノノミヤ妃なんて学習院大卒の働いた経験なし女でしょう?
何で頭もよくないのに子供を産むわけ?
マサコは頭がよい程子供が出来にくくなるのだ・・と無理やり自分を納得させようと
したがそれは無理だった。
だから、産むなら猫の子でも産むようにいくらでも産めばいい。あちらが10人産んでも
自分が産む一人の方が価値があるのだと思い込む事にした。
それでも「悔しくないのか?」というセリフが頭にはりついて、その日は延々と泣いていた。
あまりに泣き過ぎて、朝になったら目が真っ赤に腫れ上がっていた程。
この恨みは一生忘れまい・・・・マサコは深く心に刻んでいた。
一方、アキシノノミヤ家では静かに懐妊の祝いが設けられていた。
昼間に参内して両陛下に懐妊を報告すると、「おめでとう。体を大事に」と
いう言葉を賜った。
皇后は目を細めて笑った。
失った声はまだ戻っていなかったが、それでも嫁の懐妊は本当にうれしいらしく
久しぶりに顔がほころんでいる。
「おめでとうございます。お姉さま。私に出来る事は何でもいたしますわ」と
ノリノミヤも嬉しそうに言った。
「サーヤは自分の心配をしなさい」と、アキシノノミヤが言った。
この所、週刊誌がかまびすしい。
それというのも、ノリノミヤの婿候補と呼ばれる人達が次々結婚していくからだ。
ノリノミヤ自体はそれほど結婚に乗り気でいるわけではなく、候補者が結婚したからと
いってがっかりするような事はなかったのだが。
それでなくても、皇后の看病で自己犠牲になっているのではないか・・・・と宮は
心配しているのだ。
本来なら皇太子妃が皇后に代わり、公務を肩代わりなどをしていかなくてはならないのに
当の皇太子妃は精神的に不安定なまま。
アキシノノミヤ家としては出過ぎた振舞をするわけにいかず。
そんなジレンマに悩んでいるのだった。
「私は別に、今のままで十分に幸せなのよ」
「そうは言っても。宮内庁は何をしているのか」
「お兄様っておもう様よりうるさくていらっしゃるのね」とノリノミヤは笑った。
キコは「兄上様はノリノミヤ様の事を心配しておいでですよ。マコのお世話をされるより
どなたかと楽しくお付き合いする方がよろしいのでは・・・と」
「うん。そうだね。いつまでも時代劇だアニメだと言ってる場合じゃないね」
と天皇も笑った。
「でも、キコは体を大事にして、丈夫な子を産みなさい。マコを育てつつ公務を行い
子供を産むのは大変だろう。もし、困った事があったら何でも相談するように」
「ありがとうございます」
笑顔に包まれた報告だった。
そして「アキシノノミヤ妃懐妊」の知らせは日本中に流れ、久しぶりに「キコちゃんブーム」
が再燃し、マスコミが取材攻勢をしかけてくる。
国民誰もが心の奥底に持っている願望・・・それは「男子出産」だった。
「もし男子だったら・・・」
皇太子家よりも早く男子が誕生したら・・・それはそれでめでたい事になるか
それともお家騒動ぼっ発か。
みな何となく皇太子夫妻のぎこちない風景には気づいていた。それだけに・・・・
赤十字公務で女性皇族が集まった時、マサコは明らかに不機嫌そうな顔で
笑顔もなく、顔がひきつっていた。
会場はどこもキコ妃の懐妊でお祝いムード一色。
皇后を始め、古株の宮妃方もこぞってお祝いを言い、子育ての話で盛り上がり
和やかに式典が始まった。
その中でマサコとタカマドノ宮妃だけは特に言葉をかけるわけでもなく
厳しい顔で無視している。
最初は気づかなったキコだったが、次第に二人が自分に対して敵意を持っているような
気がし、ちょっと控えめに下がった。
「皇太子妃殿下がお可哀想だと思わないの」
こっそりと耳打ちするようにヒサコは言った。
「ご結婚して半年あまり、まだご懐妊の兆候はないのよ。だけど週刊誌も国民も
皇太子妃の懐妊を望んでる。本当に望まれているのは皇太子妃殿下のお子なの。
勘違いなさらないでね」
その言葉にキコはショックを受け、思わず泣きそうになった。
「どうなさったの?具合でもお悪いの?」
声をかけてきたのはユリ君だった。
「少しお休みになったら?」
「いえ・・・大丈夫です。お気づかい、ありがとうございます」
「いいのよ。私にも経験があるわ。何といっても私は5人も産んでいるもの」
ちらりとヒサコを見る。ヒサコは咳払いをしてそばを離れた。
「どうかお許し下さいね。カタマドノ宮の所は去年、3人目が女の子だったでしょう?
あれも歳が歳でもう4人目は諦めなくてはという所でね。色々気がたっているの」
「いいえ・・・私こそ・・・このような時期に」
「何をおっしゃるの。お子が産まれるのはどんな時でも嬉しい事。気にせずに」
キコは頷いた。
これ以上、他の宮妃に心配をかけたくない。
いぶかられないようにポーカーフェイスを貫きつつ、しかし心は穏やかではなかった。
男子出産のプレッシャーは自分にもある。
宮妃ならだれでも。
アキシノノミヤ家としても後継ぎが必要だった。だから宮とは相談しつつ
何人でもという気持ちで頑張ろうとしているのだが。
こんな事、宮には相談できない。
静かに深い悲しみが心を覆っていく。妊娠初期の不安定な心の動きだろうと
自分でも思うのだが、それでも悲しくてたまらなかった。
3年前はそんな事なかったのに。
しかし、それは長い苦しみの始めの一歩にしかすぎなかった。