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韓国史劇風小説「天皇の母」98(曖昧なフィクション)

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ダイアナ妃が日赤を訪問した事はパパラッチによって世界中に配信された。

大震災の写真の前のダイアナ妃によって、震災の傷がより一層正確に世界に伝わったと言えるし

ボランティアや支援の輪が広がるきっかけにもなった。

 

一方、2月23日が皇太子の誕生日という事で、その数日前に記者会見が開かれた。

当然、記者達の質問は震災関連の話になり、震災直後に中東訪問を強行した事や

いまだに被災地に行かないことなどがあげられた。

それに対して皇太子は、多少しどろもどろになりながら書かれた文面を読む。

「天皇陛下は常に象徴として国民とともに苦楽を共にするという

精神的な立場に立つと言っておられます。


近年では,雲仙の普賢岳の噴火の折,そして,北海道南西沖地震の折被災地を訪れられ,

お見舞いをされました。

また,この度の大震災の折には地震の発生の直後からできるだけ早い時期に

被災地を訪れられることを希望されつつ,交通が途絶し,救援物資の調達もままならない

現地の状況を気遣われ,救援活動を何よりも優先させなければならないとのお気持ちで,

よい時期に現地を訪れることを希望され,先日お見舞いをなされました。


また,地震の発生直後から格別のご心痛をもって被災地の状況をお聞きになり,

お見舞いの意を表され,また,お見舞いの言葉,そしてお見舞金を賜られました。

私も天皇陛下のこのようなお気持ちを体し,この度の大震災で亡くなった方々に心から

哀悼の意を表すとともに,被災者の方々がこの困難な状況を一日も早く克服されることを

心より祈っておりますし,また,今回の震災の甚大さとその規模に鑑み,

現地の状況を見,現地を訪れ,被災者の方々を少しでもお励ましできればと思っております。


また,避難所であるとか,復旧作業の現場ですとかそのような場所を訪れ,

避難所におられる方々や救援・復旧活動に当たっておられる方々を少しでも

お励ましできればと思っております」

だったらなぜすぐに行かないのだ・・と誰もが言葉を飲み込む。

言葉は丁寧でも皇太子の言いようはどこか他人事のような冷たさがあった。

 

記者達が「中東訪問について宮内庁に抗議があった事」などについて質問すると

「このことについては,出発前にも申し上げましたとおり,私としては非常にしのびない,

日本を離れるのは,非常にしのびない気持ちではあったわけですけれども,

政府の方針に従って中東地域を訪問したわけであります。

それで,ヨルダンにあっては日程を,これは政府の方針で日程を短縮して,

そして日本に戻ることになったわけですけれども,いずれも私のこういう公式な外国訪問につきましては

すべて政府の閣議了解を経なければいけないという事情がありますので,

その辺の訪問については政府の方針に従ったわけであります」

この文章は全て皇太子が作っているのだろうか?

「政府」という言葉が短い中に4つも入っている。それによって「私には責任がない」とでも

言っているような妙な不快感があった。

確かに、皇族の海外訪問は政府が決める事であり、「行きたくない」から行かないというわけには

いかなかっただろう。

しかし、震災後にも関わらず強行した背景にはマサコの元の職場である外務省のごり押しが

あった事は明白であったし、その理由もまた明白だった。

現地に随行した記者達の中には、マサコの見事な紅白の衣装や、ラクダレースで騒ぐ姿を

目撃しているものも多く、その横で楽しそうに嬉しそうに笑っていた皇太子を知っているのである。

 

「1週間後に被災地を訪問するという事ですが、今まで何をしてきたのか」という質問には

「この間,帰国しましてからは被災状況についての話を伺う機会がありましたし,

それからまた,日を追って被災地の状況などをニュースそれから新聞等でもって見る機会がございました。

私としましては今,どういうことができるか,いろいろ考えていたところでありますけれども,

今度,現地に行きまして少しでも被災者の方々をおなぐさめすることができればと思っております。


また,先程の質問に追加させていただきますと,

中東を訪問している最中もやはり,ひとときもこの神戸の被災地で亡くなられた方々,

そして苦しい生活を送っておられる方々のことは頭を離れることはありませんでした」

積極的に情報を収集したのではなく「伺う機会があった」という言葉に失望する記者も多かった。

進講と説明で2度しか話を聞いていないし、次々に関係者を呼んで話を聞く天皇と皇后の姿勢とは

真逆であった。

もしかして、皇太子夫妻はこの未曾有の震災について完全に「自分には関係ない」と思っているのでは?

とってつけたように「中東訪問をしている時も頭を離れなかった」と言ってはいるけど

それではラクダレースでの騒ぎ方は何だったのだ?

遺跡を訪問した時も夢中でカメラをぱしゃぱしゃとって、夫婦ではしゃいでいたではないか。

 

「両陛下と被災地訪問について話をしたか」という質問に関しては

「私も先日の両陛下のご訪問の様子はテレビや新聞等で見ましたし,

それからまた,両陛下からもいろいろお話を伺う機会がございましたけれども,

先程も申し上げましたように,救援活動を何よりも優先させなければいけないというお気持ちで,

そして,現地でよい時期に現地を訪問したいというお気持ちを強く持っておられて

この度のご訪問がなったわけですけれども,現地において両陛下が親しく被災者の方々を

励ましておられる様子を私も拝見し,ほんとうに両陛下もとても大変でいらっしゃったと思いますけれども,

大変,その辺を立派になさっておられるように拝見いたしました。


それからまた,両陛下からも具体的にどういう話ということは申し上げられませんけれども,

被災地でのことをいろいろ伺うことができました」

本当に話を聞いたのだろうか?

記者達は速記をとりながら首をかしげた。

重複する言葉の数々、回りくどい言い方で本当は何を言いたいのかわからない文章。

皇太子はこういう喋り方をする人だったろうか?

どこかで記憶が・・・・記者達ははっと思い当たる。これはマサコが婚約記者会見で話したあの

独特な言い回しとそっくりだったのだ。

 

マサコと被災地訪問について何か話しているか問われると

「まだ具体的には私、二人の間では今後考えていくことだと思いますけれども

両陛下のなさりようを拝見しながら、行く先々でどういう風に被災地の方々を

励ましていくか、私達としてまた考えていきたいと思っています」

ちょっと待て・・・あと1週間で訪問だというのに、これから考えるのか?

 

記者会見は大失敗・・・の筈が、本人的には大成功だった。

2月26日、ようやく皇太子夫妻は被災地に降り立った。

黒の長いスカートをはいたマサコは「ご懐妊か?」と思われるほどに太っており

マスコミのカメラの前以外では終始不機嫌だった。

それでも被災地の人々は「皇太子夫妻が来てくれた」と喜び、気をよくした宮内庁はさらに

3月2日も訪問するスケジュールを組んだ。

 

それによって3月12日に待ちかねたようにアキシノノミヤ夫妻が訪問、4月30日には

ノリノミヤが訪問、そして5月にはヒタチノミヤ夫妻が訪問する事が出来た。

しかし、皇太子夫妻のせいで被災地訪問が遅れ、ダイアナ妃など外国の王族の方が熱心・・・というイメージは

今後なかなか払しょくされないのであった。

 

3月20日、いわゆる「地下鉄サリン」事件が起き、日本は初めて「テロ」の恐怖と対面する事になった。

サリンがまかれた地下鉄は皇居の二重橋駅と通る路線。

つまり、皇居の目と鼻の先で起こった事件という事になる。

何十人もの人が亡くなり、数百人にに上る被害者をだした新興宗教団体によるテロ事件に日本中が恐怖した。

今上の御代になってから、バブル景気の余波に浮かれ、自分を見失い、信仰に救いを求める人が増えてきた

のも事実で。それがまさかの「日本を潰す」計画を持つとは。

戦後から今まで、日本人は自分の国の繁栄をひたすら願ってきた。

敗戦国としてみじめな思いをしても、国民全部で復興する事だけを夢見て生きていたのだ。

その甲斐があって、日本はアジアでも最高の発展をとげ、今やアメリカにも匹敵する勢いのある、影響力のある

国になった。

それがまた軋轢を生むのであるが、それでも日本人は走っている足を急には止められないのだった。

 

しかし世界は次第にキナ臭くなっている。

湾岸戦争が起こり、パトリオットが人々を確実に殺していく。

どの国がどの国と手を結ぶのか、敵なのか味方なのか・・・日本としても無関係ではない。

今の今まで中近東の内戦や戦争とは無関係に生きてきた日本人ではあったが

自衛隊派遣によって、そうも言っていられない。

という事はそれだけテロの恐怖が増える事になる。

国内あっては、過激な無政府主義者がテロや無差別殺人を起こし、世界にあっては

国を標的にするテロが起こる。

1980年代には活発だった王室同志の交流、とりわけ訪問したりされたりというような事が

次第に減ってきたのだ。

東欧・北欧などの王室が、大陸内でそれぞれ交流するにとどまる。

重要な行事でもなければ日本に来ることもないし、行く事もない。

マサコにとって、それは予想外の出来事だったし、それこそ「約束と違う」という思いで一杯だった。

「外国へ行けるって言ったじゃない」

といくら皇太子に訴えても「それは政府が決める事だから」としか答えがかえってこない。

時節が悪い、もう少しすれば・・・そんな表面的な慰めが通用する程、マサコは甘い人間ではない。

これ以上、皇室の中にいたら気が狂いそうだった。

「3年は子供をつくらない」と宣言していた、3年がもうすぐやってくる。

公務の兼ね合いがあるから、皇族は好きな時に妊娠とか・・予想外の妊娠が許されない。

それでも宮内庁の配慮で、いつ妊娠してもいいようにスケジュールはゆったりとってあるし

週に3日は休むようにしている。

これだけ配慮されていても、マサコは懐妊しなかったし、またする気もなかった。

皇太子の事は嫌いではない。

でも男性として見る事が出来ない。それでも結婚したのは、ただ父親に言われたからだ。

結婚すれば父親に認めて貰える。さすがにわが娘と言われる。

父の願いは外交で「マイドーターイズプリンセス」と自慢する事なのだから。

けれど・・・本当の自分は一体どこに?

宮中祭祀も、接見も会釈も地方視察も、何もかもマサコにとっては「嫌い」な事だった。

毎年行われる歌会始めの為に歌を詠む事もたまらなく嫌いだった。

それは自分には、文才もなければコミュニケーション能力もない、ただ座っている事すら出来ない

という欠点を浮き彫りにする事だったから。

小さい頃に持っていたとコンプレックスが頭をもたげてくる。

せっかく、ハーバード大出の外務省勤務という普通の女性は手に入れられないような栄光を得たのに

やっと優越感にひたっていたのに、今や思い出すのはフタバで劣等生だった自分、問題児だった自分、

父のがっかりした顔など等。

さらにアキシノノミヤ妃の変に優等生な顔つきが余計に自分をいらだたせるのだ。

ああいう子、昔、クラスにいたような気がする。

しらっとして控えめなくせに何でも出来る。それを自慢しようともしない。

ああいういい子ぶりっこが一番嫌いなのである。

不得意で苦手で嫌いなものばかりの世界。まるで悪夢だ。

今やキコ妃と同じ衣装を着て、彼女の泣きそうな顔を見るときと、皇居で皇后の隣に立つ自分に

みながひれふす時、バルコニーでお手ふりした時くらいしか楽しい時がなかった。

「もう何もかも嫌」

マサコは次第にひきこもりがちになった。

誰にこの怒りをぶつけたらいいのか、それがわからないので余計に落ち込むのだった。

彼女が救いを見出したもの。それは古今東西、傾国の妃がやってきた「贅沢」だった。
 

 

 


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