来週の9日は皇太子夫妻の結婚記念日です。今までもこれまでのお二人のありようを色々
書いてきたつもりです。
2008年6月9日の「皇太子結婚15周年」のブログは こちら 1
自分で読み直して思ったのが、随分と甘い目で見てあげてたんだなあという事でしょうか?
たった5年前ですが、あの当時は擁護派が非常に沢山いたんですよね。
ちょっとでも真実を書くとすごい荒らしがやってきて・・・みたいな事も多々ありました。
だから多少は甘く、事実のみをわかりやすく・・みたいなスタンスで書いたと思います。
ですから、今回はもっと本質的なものを掘り下げて書いてみたいと思います。
(小説のネタバレしちゃうみたいなんですけど、小説もよろしくね)
この5年で東宮家をとりまく環境は大きく変わりました
一言でいうと、国民はみな「本当の皇太子夫妻」を知ってしまったという事ですね。
もうごまかしはきかないし、いくらテレビや女性週刊誌が必死に擁護しても、日本国民は騙されない。
けれど何も言わない。その代わり視聴率が落ちて雑誌が売れなくなってマスコミの信憑性がなくなる・・・
反論されるより怖い状況に陥ってると思いますが。
マスコミは皇太子夫妻と一蓮托生のちもり? どんなにひどい人格の持ち主だろうがやりたい放題だろうが
それで自分達の利権が守られるならそっちにつくというわかりやすい論理で動いているんでしょうか
雑誌が売れなくてもマスコミは信用ならないと思っても視聴率が落ちても、その頃は年金貰ってウハウハ人生?
無論、天皇や皇后になった二人は「海外旅行」と「静養」に意義を見出し、税金の大半を使い込み、
世界的に日本はさらにスル―されると
救いは悠仁親王のみ。
その悠仁親王について素敵なブログがあります。 それは こちら
生き様が全く違った二人
小説を書き始めてから、色々な資料を調べる必要があり、ネットで色々資料を見ています。でも、やっぱり
最終的には国会図書館あたりに行くのがいいんだろうなあと。
それでも改めて昔の雑誌の記事を読んでいると、小和田雅子氏については当初から危惧する声があったという事。
それは単に「父親が外務省で政治的な動きがある」とか「チッソの孫」だからというものではなく、
彼女の人格や性格に関する「危惧」それもまた「帰国子女ではきはきいう」とか「男女対等の意識が強い」とかいうものでは
なく、もっと根本の「心の発達」そのものを危惧していた人達がいたという事です。
いくども繰り返される「性格はむしろ古風でシャイ」「壁の花タイプ」「誰とでもつきあうタイプではない」「無口になる」
など現在の妃を思わせる言葉が飛んでいるんですね。
当時、雑誌を読んでいた人は気づかなかったでしょうけど、今考えると、小和田雅子&小和田家の家族はすっぽりと
「家族」というカプセルに入り込んでいて、よくいえば結束が固い。悪く言えば「家族以外は信用しない」という事に
なるでしょうか
記者達がどんなに頑張って外務省やデンフタやハーバードに取材攻勢をかけても、仲の良い友人があまり出てこないし
「おめでとう」の言葉と裏腹にいいエピソードが一つも出てこなかった事がいい証拠でしょう。
覚えているのは、ボサノバの歌手が「オワ」って歌った事くらい?あの歌手とはその後、どんなつきあいを?
秋篠宮夫妻の場合、二人とも学習院出身でしたし、紀子妃の父親は学者ですから非常に天皇家の雰囲気と
似ている部分がありました。結婚の儀の時に学友達がNHKのスタジオで色々会話をするのですが、みんな同じ
思い出も持って温かく二人を見守っていたという印象があります。
けれど、皇太子の結婚の儀の時は、皇太子の学友数人が固まって座り、雅子妃の学友は所在なげだったという
印象が。後から見てこの時の「雅子妃の学友」は小和田側にお金で雇われていた同級生だったんですよね
皇太子の学友達が饒舌にあれこれエピソードを出してくるのに、雅子妃の方の学友はひたすら
「彼女は優秀」と・・・それしかないって感じで。
二人の結婚までのビデオも、皇太子は生まれた時から・・いわゆる国民が目にしてきたような「皇室」のイメージ
ビデオでしたが、雅子妃のビデオはソ連やアメリカの有名な観光地で贅沢三昧している映像ばかりで
「二人が生きてきた環境の違い」をまざまざと見せつけられた感じでした。
それを見る学友達の視線もどこか冷たかったなあ
アナウンサーが必死に盛り上げようと記者会見の映像を出すんですけど、取り上げられるのは常に
「雅子さんの事は僕が一生お守りします」と「オーケストラ」発言ばかりで。
しらけちゃうんですよね・・・・・
しかも外は大雨。
結婚の儀に臨む皇族方は秋篠宮夫妻を始め紀宮殿下、常陸宮両殿下と続くのですが、誰一人笑顔じゃないと
いうか、顔つきが険しい。特に紀子妃と紀宮様のどよーんとした顔は印象的で「何かあったの?」と思いながら
見てたんです。私はその時は「夫婦喧嘩でもしたのかしら」と思ったんですよね。
なんせ秋篠宮は席についても所在なげだし紀子妃は真一文字に口をきゅっとむすんで真正面を向いて微動だに
しない。
当時、ちょっと不仲説が出ていた時でもあり、それを信じ込んでいたのかも。
宮中三殿に参内する列席者は全員、門の所で一礼しているのに小和田家の面々だけはそれをしなかったのも
驚きで・・・いや、あの頃はさらっと見てたけどあらためて見直すと「この時からすでに・・・」と思ってしまうんですよね。
アナウンサーは必死に「式は建物の中だから雨は問題なし」と言い続けるけど、正直パレードがどうなるか
心配だったでしょうね。
あのパレードの時、奇跡的に雨が上がったのは神様からの細やかな「御慰め」だと思っています。
間違った結婚を選んだとはいえ皇太子は天皇家の末裔であり後の皇位を継ぐもの。
このころ、神様達は「まだやり直せる」と思っていたのかも。
パレードの時に沿道に学会の旗が沢山はためいていたというのはもう有名な話になっているし
東宮御所の入る時、雅子妃の立ち位置がプロトコルに合わなかった事・・・それはまるで
王冠を落としたエリザベートや結婚証明書にインクをこぼしたアントワネットのように
象徴的な出来事だったと言えるでしょう。
皇室という環境で戦争を乗り越えカリスマ性の象徴と化していた昭和天皇を祖父に持ち、
国民の皇太子妃を母親に持ち、幼い頃から「立派な皇族」になる事を義務付けられ、教育されてきた
皇太子と、「贅沢」がステイタスの環境で育った雅子妃では全く生き様が違う。
なぜこれほどまでに生き様が違う相手に執着したのか、皇太子に聞いてみたいです。
二人は共通点も共通の趣味もなく、話す内容も多分ちぐはぐだったでしょうし。
小和田恒の野望
小和田家は3代前が不詳であると言われています。
当時、「村上藩の藩士」の家柄と伝えられた筈ですが、それは全くの嘘。
確かに新潟に小和田家はありますが、その家から「うちとは関係ない」と言われた筈。
また、墓もなくて結婚が決まってからツギハギのように作ったとも。
じゃあ、小和田家は一体どこから来たのか?と。
小和田家に「かの国」からの密航者疑惑が上がるのはこういう所ですね。
通常、天皇家と縁続きになるには3代前までさかのぼって犯罪者や精神病者がいない事を確認される
ものですが、宮内庁が小和田家と江頭家を調べようとした時に、同和関係からデモを起こされ
半ば脅しに屈したような形で嘘の家柄が作られたという事になります。
今でいうなら橋下市長が血筋を暴露されてキレたようなものでしょうか。
血筋を持たない小和田家と江頭家が「結婚」で結びついた事は利害関係の一致だったのではないかと思います。
小和田恒氏には兄弟が何人もいますが、結婚後、誰一人マスコミに出てこないですよね。
一人くらい「私は皇太子の叔父(叔母)」と自慢してあれこれエピソードを語ってもおかしくない家柄なのに
なぜか非常にまとも・・・・と言っちゃ失礼ですが控えめですよね。
という事は恒氏だけが突出して野心家で策略家で権力志向が強い人物という事になります。
もしかしたら小和田一族の中でも鼻つまみものなんじゃないか?とすら思う程ですが。
恒氏の野望とは何なのか。
一言でいうと「自ら藤原不比等になり、藤原道長のような生活をしたい」という事ではないかと。
関裕二氏によると藤原氏の祖、中臣鎌足は百済の王子だそうで戦の最中にヤマトに逃れて
中大兄の皇子の心を掴んで白村江に出兵させるも惨敗。その間、一定期間、鎌足がいない時期が
あるとかで、要するに彼は日本の為ではなく自分が生まれた国の利益の為に権力を握ろうとしていた
という事ですね。
息子の不比等は、聖武天皇に娘の光明子を嫁がせ、基王子を得ますが彼がすぐに亡くなると、他の王子達を
全部陥れて無理やり光明子の一子である阿部内親王を皇位につけます。
男系男子がいたにも関わらずです。
そもそも聖武天皇の母親・宮子は不比等の娘ですが出自がわからない。梅原猛氏によると「海女の娘」だと
いう事ですし、正室でもなかったし精神的な病を持っていたわけです。
それに対して、長屋王は両親共に皇族、正妻も皇族という素晴らしい血筋で正義感もあったから、当然
人望もあったでしょう。聖武天皇のコンプレックスを利用した不比等は「皇后は皇族でなければ」という慣例を
打ち破り、光明子を皇后にし、宮子に尊称を与え内親王を天皇にしたわけです。
しかも野心的な不比等 → 光明子 の手伝いをしたのは藤原仲麻呂。何と彼は皇后の為に紫微中台を
作ってしまう。これは仲麻呂と光明皇后の独自の組織である意味、天皇より権力があったわけです。
仲麻呂は光明皇后からいえば甥?でも二人の結びつきは親族というより愛人?しかも仲麻呂は阿部内親王にも
手を出していたようですし、いわゆる「家族カプセル」にどっぷりはまって、他の皇族方を排斥したわけですね。
藤原氏は大和の祖であり、大王制において「合議制」を始めた蘇我氏に汚名をきせて滅ぼしたという過去があります。
今もって蘇我氏は「大化の改新」の悪役である事がいい証拠でしょう。
一度きせられた汚名は何千年経っても残る。
道長は藤原氏全盛時代の象徴でもあり、一条天皇には愛妻定子がいたにも関わらず、娘を立后させて
その子を天皇にする・・・という外戚政治に手腕をふるいました。
今の恒氏の感覚は不比等と道長を足して2で割ったくらいのものではないかと。
娘を入内させるにあたってやった事もかなり似ているし、もしかして不比等の生まれ変わりなのか?
だとしたら再び日本は「かの国」の血筋に取り込まれてしまう危険性があり、正当な皇位継承者の
身が危ないという事になります。
恒氏の性格については以前、週刊誌等に書かれた事を引用しました。
とにかく「上から目線」「権力志向が強い」「自分を偉く見せたい」そればっかりなんですよね。
なんでそんな性格になるかといえば、コンプレックスが半端じゃないという事です。
血筋、家柄、学歴・・・そういったものへのコンプレックスが「恨」となって燃え上がっているのかもしれません。
彼にとって、娘が皇后になり孫が天皇になる事が唯一の「人生への復讐」なのかもしれません。
自虐史観と天皇
何だか、二人の結婚と全く関係ない話になっていますけど、もう少しおつきあいください。
今のような東宮家の状況になった原因の一つは両陛下ではないかと私は思っています。
こういう風に書くと、某巨大掲示板で叩かれそうですね。
・ 50をすぎた子供の責任を親が取るのはおかしい
・ 「皇后ガー」は実は東宮擁護派だ
・ 東宮職は独立した機関。ゆえに両陛下でも口出しできない
など等。
でも、私は両陛下の「責任」とは言ってません。両陛下が「原因」ではないかと言っているのです。
両陛下と小和田夫妻は1歳しか歳が違わない同年代です。
互いに戦前戦後を子供として送っています。
今の私達には想像もつきませんが、日本の勝利を信じて我慢を強いられ結果的に負けてしまい
敗戦国になった痛みは、心の奥底を蝕んでいったのではないかと。
戦後、日本国民は力強く復興への道を歩み始め、その象徴が皇太子の結婚だったわけですが
当の皇太子がもっとも傷ついていたとしたら・・・
戦後の左翼活動というか反日史観の植え込み運動はすさまじいものがありましたよね。
その片鱗を知っている私達世代は今でも「日の丸」「君が代」に心苦しいものを感じて正直に
「国を守りたい」「国の為に生きたい。だって愛してるから」とは言えません。
素直に愛国心を口にすることも、国歌を歌う事もはばかられるような雰囲気の中で生きてきたのです。
「戦争を起こしたのは日本で悪いのは全部日本。天皇に戦争責任がある」という考え方はかなり根強い。
ゆえに日本はアジア諸国に対して常に罪悪感を持ちながらいきてきた。
その最たるものが小和田恒氏の『ハンディキャップ論」ではないかと。
戦後に子供時代を送った三笠宮家の3親王も、学生時代に同級生らに「税金で暮らしてるくせに」など言われ
かなり辛い思いをして、?仁親王はちょうっとしたワルになり、桂宮は一生独身を
貫く羽目になり、高円宮は韓国に近づいていく・・・?仁親王はそれでも最後は「天皇家の藩屏」であろうとされましたが。
では当時の皇太子=天皇は?
戦争中は「陛下の為に」といって多くの兵士が亡くなっていった事をご存知です。
軍部による天皇の政治利用をその目で見てきた方ですし、そんなやり方に反論できないご自分や父君をどう
見てたかな・・・と思います。
天皇制は維持され、昭和天皇は人間宣言をする事で一見、戦前と何も変わらない皇室がそのまま受け継がれていくように
見えつつも、皇太子の胸中には「本当にそれでいいのか?私達に責任はないのか?」と考えたでしょう。
戦後はにバイニング夫人に教育を受けました。熱心なクェーカー教徒の彼女の教えは博愛主義。
そして個人主義を教えたのではないかと思います。
「民主主義」の正しさや素晴らしさを実感しつつ、それとそぐわない部分を持っている天皇家。この矛盾に
苦しまなかったと言えるでしょうか?
小和田氏はその矛盾をハンディキャップ論にすり替えて、中韓に心酔していきます。
陛下はそういうわけにはいかないから、頑なに憲法順守に拘り、国民のもとに降りてこようとされた。
そして「新しい公務」を模索し作り上げ「象徴天皇制時代の天皇の在り方」を示されたのだと思います。
正田家の美智子嬢が皇室をどのように考えていたかはわかりません。
「新興貴族」出身の彼女にとって皇室は縁遠い存在だったと思いますし。
だから結婚の時は戸惑い、迷い悩んだのではないかと推察します。それでも運命を受け入れた背景には
皇太子への愛・・・も勿論そうですけど、皇太子の考える「新しい皇室」ビジョンに賛同したからではないかと。
まさに現皇太子と雅子妃が言い出した「時代に即した公務」「やりがいのある公務」「旧弊な皇室を変える」
事はここから始まっていたのです。
二人にとって、旧皇族や旧華族の存在は、自分達の行く手を阻む抵抗勢力に見えたかもしれません。
でも、昭和天皇存命の間は、その溝は表に出る事はなかった・・・・それは昭和天皇という偉大な
「時代の象徴」が神様のごとく存在し、溝を埋め、互いを守っていたからですね。
現皇太子の結婚の時、皇后は「民間出身」に拘られた・・・・とまことしやかに伝えられています。
それは皇后自身が「初の民間妃」だったからで、それが皇后のアキレス腱になった事は間違いありません。
ご本人がそうでなくても、そうだと言われてしまう、それこそが弱み。
天皇家の存在価値は実は公務の質や量ではなく、「血筋」これしかないのだと・・・両陛下は長い事
考えてこなかったのでは?
今さら、その事に気づいてももう遅いです。
3代前が不詳のお妃を皇室の中に入れて、内側から破壊する事を許してしまったのですから。