雪組も月組も・・・星組のDVDも・・・みんな見て、それでも今回、また泣いた
こんな・・・ストーリーわかりきってる話なのに。どこまでもベタな話なのに。ロミオとジュリエットなんて
めちゃお子ちゃまな恋なのに、どうして泣けちゃうの
ちえ&ねねのラブシーンがあまりに本格的で「二人が本当にキスしてたとしてもいいっ許すっ」
と姫と友人と3人でしゃべくりまくっておりました。ミーハーだなあと。
久しぶりに姫と出待ち 真っ先に出てきた十輝いりすと柚希礼音のかっこよさにドキドキ。
あ、勿論姫の本命・天寿光希様のお手紙一人一人をじっくり見てから受け取るしぐさにうっとりでした。
全てがパワーアップ
宝塚の舞台の場合、全てにおいて「初演」が一番出来がいいと決まってる。
「ベルばら」しかり、「エリザベート」しかり、「オーシャンズ11」しかり・・・当然、「ロミジュリ」しかり・・・なんです。
再演するごとに劣化していくパターンがほとんどですよね。
が、まれに「再演」で「おおっ」という結果が出たものもあります。
「エリザベート」1997年星組版 → 適材適所・歌唱力では雪組に及ばないけど、海外ミュージカルとしてではなく
宝塚の「エリザベート」として全く違う色合いをだし、大成功。
「オーシャンズ11」2013年花組版 → こちらが正統派なのでは?というできばえでした。
オリジナル作品においても、再演でがっかり・・・みたいなパターンはかなりありますし。
そういう意味で、宝塚において再演というのはあまり頻繁にやるべきではないし、危険な賭けである事も確かです。
今回の「ロミオとジュリエット」は初演が2010年、星組の梅田劇場。
少数精鋭の安定した出来栄え・・(DVDのみですが)それぞれが適材適所に配された作品で、そこで火がつき、
翌年、2011年で雪組で再演。梅田でやったものが大劇場作品として蘇りました。
しかし、震災の影響と96期問題のおかげで音月桂お披露目に水を差す結果となり、演出も配役もちぐはぐ。さらにいうなら
衣装のひどさはもっとも深刻でした
ジュリエットに96期の夢華あみが配された事でファンの怒りを買い、観客減少の引き金に…オーバーかもしれないけど
最前列で夢華を見た身として、あれはひどかったと思います。
2012年月組版は、これまた龍真咲のお披露目でありながら何とロミオ自身の役替わりという、めちゃくちゃなパターン。
主役がロミオにふさわしいかどうかなどという事は全く考えていない・・・ゆえに他の配役も同じ出来で、テンション下がった
記憶が。
梅田版が人数が少なく、銀橋も大階段もない作品でありながら充実した「いかにも宝塚」の世界をくりひろげ、演出の巧みさを
見せつけられたのに対し、雪組も月組も、わざわざ銀橋を使う必要があるのか?とか、アンサンブルにまとまりがないとか、
あらばかり目立ちました。
また、この作品は「うたかたの恋」と同じで、主役コンビの相性のよさ、長年連れそれそっている間合い、掛け合い、
信頼、愛情が重要なポイントとなるので、お披露目のように、ぱっとコンビを組まされた相手同士では、どう頑張っても
ラブラブ感が伝わってこない。
(「うたかたの恋」が全ツなどで新コンビお披露目に使われるようになり、作品の劣化は確実となりました)
また、それぞれの組に力関係があり、その組によってティボルトやマーキューシオの重要度が変わるという
モヤモヤ感もありました。
そういう意味で、今回の星組は梅田でのあの充実感をきちんと再現できるのか?場所もメンバーも変わり
人数も増えて、あの時以上のものが出せるか否かが課題だったと思います。
歌劇団の思惑は観客動員。その為にAパターンとBパターンという役替わりを用意し、どちらも見たいという
お客の心を刺激したわけですが、その点に関してはかなり疑問があります。それは後述するとして。
そんな・・忙しい役替わりの中、主役2人が全くぶれなかった事。
むしろ、前回より表情が豊かになり感情表現が細かくなった事で、求心力が増し舞台にメリハリがついたと思いました。
メンバーの士気も最高潮にあがっている状態なので、全体的にパワーアップしたなと。
雪も月も「世界の王」の銀橋は何となく、ばらけた感があったのですが、こちらはまとまっていましたし
「綺麗は汚い」の客席降りも効果的だったと思います
ただ・・
そもそもが「ミュージカル」というよりコンサートのような形式だし、似たような場面が多いから仕方ないのかも
しれないけど、振付がどれも同じパターンで進んで行くのが気になり。
例えば、ロミオはどのシーンも必ず上手に走り去る・・・とか、ベンヴォーリオが必ず誰かと誰かの間に割って入って
止めるシーンばかりとか マーキューシオは必ず誰かに掴みかかるとか。
舞踏会にフラメンコ・・・ってこれはスペインだよね?とか、フィナーレにタンゴとか。
ちょっと考えすぎじゃないか?というのもあり (「宙組「エリザ」のジャズよりいいっか?)
衣装に関しては今回はおおむね良い・・・かな。でも、予算が少ないのかなと思わせる部分もありです。
音月の時みたいに変な冒険をしなかった事は評価します。
役替わりのよしあし
Bパターン
ティボルト・・・真風涼帆
マーキューシオ・・・天寿光希
ベンヴォーリオ・・・紅ゆずる
愛・・・礼真琴
死・・・麻央侑希
パリス・・・壱城あずさ
Aパターン
ティボルト・・・紅ゆずる
マーキューシオ・・・壱城あずさ
ベンヴォーリオ・・・礼真琴
愛・・・鶴美舞夕
死・・・真風涼帆
パリス・・・天寿光希
で、今回見たのはBパターン。Aパターンが基本という事で考えるとBは異色のコラボレーションという感じがします。
それだけに、それぞれ、慣れない役柄に戸惑っている印象が・・・(そうでなかったのは天寿と礼のみ)
前述したように歌劇団としては、観客動員数を上げる為に、最近では頻繁に役替わりをするようになりました
この役替わり、歌劇団の本意は「イチオシの人間を上げたい人事的思惑」が大半です
雪でいえば、舞羽美海と夢華あみ。本来、すぐにトップ娘役になる筈の舞羽をおしのけて研1の夢華を抜擢した・・
月のロミオ役替わりはもっと露骨で、ファン同士のたたき合いが激化。
昔からそういうのはありました。その度にネットではファン同士のたたき合いが始まり、互いの悪口を言い合う。
それでも相手に負けないようにチケットを買ってみてくれるのだから歌劇団としてはおいしいんでしょうね。
役替わりを指名されたジェンヌにしても心中穏やかではない筈。
本当は組としてきちんとまとまらなくてはならないのに、微妙な溝を作ったりして。
宝塚のよさというのは1公演1人が演じる舞台である事だと思います。
東宝ミュージカルや四季のように長期間にわたって上演するわけじゃない。1か月しかないわけですから
役を突き詰めて行く期間が非常に短い。だからいつも「旬」なんですよね。
しかし、役替わりになると、昨日まではティボルトだったのに、今日からはベンヴォーリオという、全く違う役柄を
両方突き詰めなければならないわけで。平等にやれば薄くなり、比重を変えれば出来不出来がはっきりしすぎる。
結果的にジェンヌの負担を減らす為に、個性を無視した振付がなされ、誰がやっても同じパターンに作らざるを得ない
わけです。
いわば、宝塚はオートクチュールの世界であるのに、いきなりプレタポルテの機械生産にされてしまうという事。
これは長年のヅカファンにとっては耐えられない事です。
ましてトップスターの役替わりなんて・・おかげで月組版はほとんど印象に残らなかった。
不況の時代です。特に舞台芸術そのものが死に瀕しているような状態。
その理由は、子供達が小さい頃から芸術に触れるチャンスが減った事。
宝塚はその昔から「祖母が見て母が見て娘が見て孫が見る」舞台でした。歌舞伎も同様。
演出家さんとか脚本家さんとか「よく小さい頃に母に連れられて劇場に通い・・」的な話をよくするでしょう?
そういう流れが現代では切られてしまったのです。
チケット代の高騰により、母が娘を連れて行けなくなった。専門チャンネルを見なければ滅多に舞台中継を
見る事もない。興味を持たないというわけです。
若い人を取り込もうと学割チケットとか、トークショーとか色々やっているようですが、そもそも興味を持たせる事を
しないのにわざわざ電車に乗って劇場に通うでしょうか?
時々、ジェンヌをテレビに出してファンを増やそう、自発的に劇場に足を向かせようとする動きもありますが、
北川景子のように、たまたま見たからファンになり、それから定期的にチケットを買える人達がどれくらいいるでしょう。
ジャニーズ並に薄利多売でいくか、アクロバット的演出で呼び込むしかないのかも。
でも、それじゃ本当の舞台芸術に触れる事にはならない・・・・日本は芸術貧困の国になったと思うんです。
そのような中で宝塚が生き残りを図る為に頻繁に役替わりをさせて、「どの公演も見たいから」とチケットを
買わせたい気持ちはわからないでもないけど、逆効果であると断言しますよ。
本当のヅカファンはころころ変わる役替わりを見たいのではなく「この役は〇〇さんじゃなくちゃ」というものが
見たいのです。
一人のジェンヌにとっての「代表作」が見たいのです。
舞台みながら「全部セリフ覚えて振りも覚えて・・ごっちゃにならないの?」なんて思いたくないのです。
宝塚は100周年を迎えるにあたり、「基本」に返るべきではありませんか?
古いのかな。そういう考え。