「可愛いなあ」
タカマドノミヤは小さなアイコを抱き上げながら笑った。
東宮御所は小春日和になり、一足早い桜の花が咲きそうな雰囲気だった。
「やっぱり東宮さんに似ているかもね」
「私は妃殿下に似ているかと思いますが」
ヒサコは笑みを受かべて言った。
「娘がこんなに可愛いとは思いませんでした。お兄様」
皇太子は嬉しそうに言った。
通常、皇孫が生まれた場合、身位が上の者から病院へ見舞いへいく。
タカマドノミヤ家は最後だったが、その当時、宮は仕事でいけず、アイコが生まれた
時の顔を見てないのだった。
春めいた時期になって、漸く会える日が来たのだった。
「うちも娘が3人だけれど、賑やかで楽しいよ」
「そうでしょう。花が咲いたようでしょうね」
ひたすら皇太子は笑っていた。いつまで娘を見つめていても飽きない風だったが
一方のマサコはふさぎ込んでいるように見えた。
ホスト役がこれではもてなしにならない。
いくら相手が格下の宮家とはいえ、それは失礼だろうと、内心皇太子はハラハラしている。
そんな夫の思いなど別にして、マサコは黙ったまま宙を見つめていた。
「どうかなさったの?」
ヒサコが聞く。
「マサコ、お兄様達がいらしているんだよ」
皇太子が軽くたしなめると、あからさまに不愉快な顔をしてマサコは答えた。
「アイコは殿下に似ているとは思わないんですけど」
「そう?父親に似ると幸せになるというけどね」
こんなマサコの態度は慣れている宮は意に介さない。
「育児について悩み事が?」
しつこいヒサコの質問に答えるのも面倒だったが、ヒサコは3人娘を育てている。
いわば育児の「先輩」で。
そんな人に口答えは出来ない。
けれど、マサコの頭の中には父が失望していた顔しか浮かばないのだった。
男の子でなかった為に父を失望させた。
その一瞬で、アイコが憎たらしくなる自分。そんな考えはいけない・・・母親として
自分がされなかった分、愛すると誓ったではないか。
だけど。この子が男の子だったら。
せめて、何か人より出来る事があれば。それはそれこそ生まれたばかりの子には
無謀な願いだった。
「育児については別に悩んではいません。
もうちょっとしゃべったり笑ったりしてくれるといいけど」
「まあ、気の早い。これからですよ」
「笑わない?そろそろそんな月齢じゃない?」
宮は一生懸命にあやしはじめた。しかし、アイコは笑いもせず、かといって泣きもしない。
「こんなにおとなしい姫だもの。奥ゆかしいんですわ」
ヒサコがそう言って笑った。「奥ゆかしい」とは絶妙な言葉だったようで、皇太子は
まさに「その通り」というような顔をする。
「泣くとすごいんですよ。一晩中」
「そういうものよ。育児というのは」
「うちは末端宮家だからいいけどね」と宮は聞かれもしない事を言い出す。
「やっぱり東宮家ともなるとお世継ぎの事があるだろう。まあ、一人生まれた
んだから次は早いと思うよ。うちのヒサコだって立て続けに3人だもの。
3人産んでもどうにもならなかったけどね」
「まあ・・・私のせいなのかしら」
ヒサコはちょっとむっとして言った。
「一人じゃ子供は産めないのにねえ」
皇太子はへらへらと笑った。
「うちはアイコで手一杯ですよ。次は・・・1年とか2年とかあけないと」
「一人っ子は可哀想だもの。せめてもう一人ねえ」
マサコはそのセリフを聞きながら、さらにいらつく自分を抑えかねていた。
その空気を察したのか宮は話題を変える。アイコは女官に預けられた。
「もうすぐワールドカップなんですよ。東宮さんはサッカーが好きだったかな」
「ええ。見るのは好きです。日本で初めての開催でしょう」
「日韓共同開催だよ。日本だけでという話だったけど、日韓共同開催にした方が
両国の友好の為なんだよ。かくいう僕も、ちょっとは関わったのさ」
「ああ・・・」
そういえば聞いた事がある。宮は日韓共同開催のワールドカップの開会式に
皇族として初めて韓国を訪れる予定があるという事を。
これははっきり言ってかなり大変な出来事だった。
日韓の間には埋められない歴史認識の壁があり、毎年のように
「靖国参拝がどうの」「従軍慰安婦がどうの」と問題が出てくる。
日本人からすればスネに傷を持つ身だから、何度も謝って来たけれど
それでも韓国は納得しないのだ。
でも仕方ない。日本は韓国にひどい事をしたのだ・・・・日本は・・・というより
祖父である天皇が。
それに関しては皇太子も多少良心の呵責を覚えている。
自分が生まれる前の話であり、いわゆる「アジア各国に対しての植民地政策」に
関しては国民と同様の事しか知らない。
でも、その事では小さい頃から何度も「天皇の戦争責任」を感じた事がある。
あからさまじゃないけど、学友から陰口のように
「天皇陛下万歳って死んで行った人たちがいるんだぜ」と言われたこともある。
自分の身分には誇りを持っているけど、祖父が過ちを犯したのなら
子孫として償わなくてはならないのでは。
宮はそう思って、日韓共同開催のワールドカップに協力しているのだ。
「僕はね、皇族として戦後初めてソウルの地に足を踏み入れる事に大いに
誇りを感じているよ。隣同士、先祖も同じな国が仲良くなれないわけがない。
互いの誤解を乗り越えて日本と韓国が親しくなれるように頑張るさ」
「素晴らしいなあ。いいなあ。お兄様はそんなやりがいのある仕事が出来て」
マサコもその点は同意だった。
「本当に。仕事はやりがいがないと。お飾りで座っているだけとか、意味のない
おしゃべりをするだけとか。バカみたいな気がします」
マサコにしてみれば、正月から始まる一連の祭祀が無駄で無駄でしょうがない。
結婚した当初は出ていたが、最近はどうにも我慢が出来なくて
なんやかやと体調不良を理由に出ていない。
前日からの潔斎が嫌なのだ。
女官に裸体を見せるなんて冗談じゃない・・・・
彼女が夢見る公務というのは、サッチャー首相のように、ド派手な服を着て
世界中を股にかけていくとか、ダイアナ妃のように「国の広告塔」になるとか。
そういう仕事をさせてやると言ったのは皇太子ではなかったか。
それを言いだすとまた堂々巡りになるので口には出せなかったが。
東宮家に比べるとタカマドノミヤ家はアクティブに見えた。
華やかな「文化交流」の仕事はマスコミによく取り上げられていたし、会食や
パーティも多い。
「結構・・これになるんですのよ」とこっそりヒサコは指で丸を作った。
「まあ。本当に?」
「ええ。いわゆるテープカット公務ですわ。謝礼がつきますの。大した額ではないけど
それでもないよりはまし。政府がくれる手当だけでは宮家としての体面を保つのが大変
なんですの。正直、ここだけの話ですけどね」
ヒサコは声をひそめる。
「韓国はお金になりますの。在日の方たちというのはいわゆるお金持ちなんですわ。
そして現在の韓国に王室はない。日本の皇室の事は「日王」とか呼んで表向き
ばかにしていますけど、内心は羨ましくてしょうがないんです。
だってあちらの人ってみんな自分は両班の家柄だと思っているんですからね。
とても権威が好きなんです。こちらはこれ(指で丸)が、あちらは権威が必要というわけ」
それは何ともいえず新鮮な話だった。
ヒサコのセリフは非常に政治的だったし、実務的とも言えた。
それこそが自分達のめざす公務ではないのだろうか。
「私達もそういう仕事がしたいんです」
マサコは訴えた。現在天皇家としての予算を貰っているが、その管理はほとんと
東宮職がやっている。天皇と皇后が全てにおいて優先であるから、
東宮家が遠慮しなくてはならない事も多い。
どはいえ、今回はアイコの為にフランスからベビードレスを取り寄せ、
音のなるおもちゃとか学習プログラムがはいった玩具、さらに巨大で豪華な
おままごとセットを買った。
皇后からは「赤ちゃんのうちはそんなに高級なおもちゃは必要ないのでは?」と
言われたけれど、そんなの時代錯誤だ。
アイコは皇太子の娘なのだから、日本中のどこの誰よりも高級品を持つ権利がある。
だけど、自由にお金を使うには・・・・
「東宮は将来の天皇だから制約があるのは当然だよ」
宮は神妙な顔で言った。
「そうですね」
皇太子もうつむく。つまり「皇太子」という身分が全ての邪魔をするのか。
「殿下は韓国に行きたいとは思いませんか?」
突然の宮の言葉に皇太子は面食らい、一瞬言葉に窮した。
「韓国ですか?」
「僕が皇族で初めて韓国の地を踏むなら、殿下が皇太子として、あるいは
天皇として韓国の地を踏めばいい。日韓友好の絆が結ばれ平和になりますよ」
「平和」という言葉に皇太子は目を生き生きとさせた。
「日本で初めて」という言葉にも。
ああ、そうなったらどんなにすごいだろう。
「近いうちに皇太子殿下には訪韓の打診が来るはず。その時はよろしく。
長い間日韓の間のわだかまりを殿下が払しょくしてくれたら、それこそ
国の為です。また韓国人はきっと妃殿下の美しさに驚いてダイアナ妃の時のような
ブームが起きますよ」
皇太子もマサコも催眠術にかかったかのように動かなくなった。
突然、未来が開けていくような気がしたのだ。
しかし、皇太子はちょっと目を伏せる。
「きっと宮内庁がOKしません。僕達がどれ程長い時間、海外旅行を禁じられてきたか。
それもこれも世継ぎの事ばかり優先で」
「トシノミヤ様は女帝になればよろしい」
宮は言い切ってにっこり笑った。
「現実問題として男系男子はアキシノノミヤで終わりです。ミカサノミヤ家には
3人も男子が生まれたのに、どこにも男子は誕生しなかった。
アキシノノミヤ家だって、そういう意味では立場は同じ。
とするなら、いつまでも男系に拘る必要はない。トシノミヤが女帝になり、その子が
皇位を継げるように皇室典範を改正すればいいのです」
「そんな事出来ますか」
「出来るかとか出来ないとかではなく、やるべきなのです。だって男系男子が
いないんだから。それにいつまでも男子誕生を待っていては妃殿下の心の
健康によくない。ここは妃殿下の為にもすぱっと女帝・女系でいかなければ」
宮は力説した。
「キク君は女性天皇でもいいとおっしゃってる。僕もそう思いますね」
それが自然な流れなのだ。
「次の皇室を担うのは殿下と僕でしょう。世代交代の波が来ているんです。
年寄りがどんなに保守的な事言っても我々が変えていかなくては。
これぞ開かれた皇室ですとも」
そしてタカマドノミヤは高笑いした。
「そうかも。いえ、絶対にそう。アイコが将来天皇になるなら私達、自由に
海外に行けます」
マサコは震えるようにそう言った。
アイコは皇太子のただ一人の娘だ。この子しか直系はいないのだ。
そういう事実をつきつければ天皇も皇后も認めざるを得ないだろう。
マサコの心の中にほんの少しかすかな希望が見えてきたのだった。