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韓国史劇風小説「天皇の母」140(来たぞフィクション)

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「お兄様が・・・お兄様が・・・・」

タカマドノミヤの死を受けて、ショックを受けたのは皇太子だった。

なんせ、自分の結婚をお膳立てしてくれた人であったし、自分のいう事は

何でも肯定してくれた。

両親や弟、妹にまで否定される事が多かった彼にとって、タカマドノミヤこそが

本当の「兄」のように思えた存在だったのだ。

彼の死で、アイコの将来がどうなってしまうのか。

いや、それよりも自分の心の支えを失ったようで悲しかった。

ショックだったのはマサコも同じだった。

けれど、今、彼女にはそれよりも重要な案件があった。

一つはアイコの健康診断。

12月1日がアイコの一歳の誕生日だった。

その前、生後9か月の時に健診を受けた時は「健康には問題ないが少しごゆっくり」と言われた。

その「ごゆっくり」という言葉に敏感に反応した彼女は、何が「ごゆっくり」なのか

徹底追及しないではなられなかった。

医師は不用意な発言だったと反省したが、それだけでは済まされなかった。

何がどうなの・・・・言いなさい。他の子供と何が違うのとさんざん責められて

とうとう「少し発語は遅いような。背中の安定も遅く・・・また内反足で」と言ってしまった。

それを聞いたマサコは真っ赤になって、それから目を吊り上げ

「何で」と言い募る。

「お子様にはお子様なりの個性がありますから。まだ何とも」

「じゃあ、内反足は?」

「これもまた誰のせいとはいえません。とりあえず夜だけ装具をつけて様子を見ましょう。

発語が遅いといっても1歳半までは様子をみないと。要するに確定ではないので

ご心配なく」

そうは言っても全てが否定されたような気がして、マサコは深く傷ついた。

「何よ。産め産めっていうから産んであげたのに、ちっともちゃんと育たないじゃないの。

あんた達には任せられないわ」

マサコは側についているナースに当り散らし、それから離乳食の本を片っ端から取り寄せ

大膳にああしろこうしろと口を出し始めた。

内反足も自分で直そうとして、装具なんかに頼らず無理にでも立たせようとしたし

発語が遅い事も気になってはいたので、耳元で常に英語の歌を聞かせる事にした。

起きてから眠るまで英語の歌や読み聞かせをすれば、喋るようになるかもしれない。

それがなぜ日本語ではなく英語なのか。

女官やナース達の怪訝な表情をよそに、マサコはマサコなりに必死だったのだ。

そして1歳児健診を受けた。

結果は・・・・・・

「やはり内反足のようです。装具を作りましょう。場合によっては手術も必要かもしれません」

その言葉に皇太子夫妻は顔色を変えた。

「何だって・・・・手術?」

「ええ。ブラント病疑いと言います。無論、手術は今行うわけではなく、とりあえず装具をつけて

様子を見て、それから・・小学校に入る頃ですね。誰にでも起こりうることですので、あまり

深刻にお考えにならないように」

「誰の遺伝なの」

真っ先にマサコは言った。

「誰の・・・とは言えません」

「でもそれって血筋じゃないの?うちには誰もそんなのいないし。やっぱり天皇家の血のせいよ」

その言葉に医師は戸惑い、「そんな事は・・・」と言葉を濁す。

恐れ多くも天皇家の血筋に問題があるとは言えない。まして皇太子が目の前にいるのだ。

心情的には「何を言ってる。この女」と言ったところだったろうが、今言えば逆効果だと

わかっているのでひたすら沈黙を通す。

「だって変よ。あなたの叔父さんだって小さい時にポリオをやってるんでしょう?

だから今だって足が変じゃないの。ミカサノミヤ家だってみんな病気ばっかり。

タカマドノミヤ様だって」

「マサコ」

さすがに皇太子が厳しい声を出したので、マサコは一瞬黙った。

「お兄様は心臓発作だったんだよ。誰の血筋でもないよ。あまりひどい事言わないで」

マサコはぶすっと黙り込む。こうなるともう誰がどう言っても無理だった。

医師は「もう一つ・・発語の・・・」といいかけてやめた。

今、追い打ちをかけるような事は言えない。

そうこうしている間にアイコは無事に1歳の誕生日を迎えた。

その日は朝から大騒ぎだった。

ヒサシとユミコが朝からやってきて、ほぼつきっきりだったし、本当は参内するのも嫌だった

のだが、これはどうしてもというので、仕方なく3人で参内し、挨拶をした。

 

マサコにとってもう一つの重要な事。

それは7年ぶりの海外訪問だった。

ニュージーランド・オーストラリア!

何と素晴らしいだろう。それもこれも子供を産んだおかげと思えば何やら得意だった。

けれど、一方で、ここまで海外旅行を止められると思っていなかった事が

心の中に澱のようにたまっていた。

最後に海外に行ったのはベルギーだった。

あの時の楽しかった思い出。それが流産騒動で台無しになった。

流産したのは自分のせいでも海外に行ったせいでもないのに、回りは止めた。

宮内庁は何も言わなかったが、自然に海外公務をなくしていった。

こんな人権侵害許せない。

その復讐のチャンスがやってきたのだ。

12月5日。

この日、皇太子夫妻は記者会見に臨んだ。マサコの誕生日と海外訪問前の定例のもので

2度にわけて行われた。

最初に皇太子妃誕生日記者会見が行われ、マサコが単独で受けた。

記者から「結婚10年目の感想」聞かれたのだが、何と答えたらいいかわからず支離滅裂になった。

「いま10年目と言われまして,ああ10年目なんだなというふうにまず思いました。

自分の中では9年という気持ちが強かったものですから,

10年目と言われて,10年と申しますと,十年一昔とも申しますし,

十年一日のごとしとも申しますけれども,確かに考えてみますと,

年が明けますと,1月19日に皇室会議を開いていただいて,

そして婚約ということになったのがもう10年も前になるんだなあということを思い

出しますと大変深い感慨がございます。

その後,皇室に入らせていただいて,私なりにいろいろと努力をしてきたつもりではございますが,

本当に力の至らない点が多かったのではないかしらというふうに思いますが,

常に皇太子さまに温かく支えていただきまして,

いつもいろいろとご相談に乗っていただいて,励ましていただいてここまで元気に過ごして

まいることができましたことを,本当に有り難いことと思っております」

記者達のぽかんとした顔にちょっとむかついた。焦ったマサコはさらに

「殿下との出会いは,両陛下がスペインのエレナ王女さまのためにレセプションを

お開きになっていらしたところに私の両親と一緒にお招きを頂いて,

伺った時が初めてお会いした時で,その後,いろいろな事がございましたけれども,

私自身,まさか自分が皇室に入らせていただくことになろうとは夢にも思っておりませんでしたので,

本当に何年かの後にそういうお話になりました時には,

大変驚き,その時は本当に大きな選択であったと思います。

また,分からないこともたくさんございましたし,心もとない気持ちでおりました中を皇太子さまに

いろいろとお教えいただきながら,また,天皇皇后両陛下にいつも温かく

お見守りいただきながらここまでまいりますことができましたこと

,大変有り難く思っておりますし,そして昨年は子供が誕生いたしまして,

国民の皆さんから本当に温かい祝福の気持ちを折に触れてお示し

いただいてることを心から有り難く感謝しております」と答えた。

自分なりに推敲した文章の筈だったが、あまり通じていないようだった。

 

記者がとりあえず「アイコ様について」と質問するとマサコは得意げに生き生きとした表情で

「お陰さまで,とても今のところ身体が丈夫で,そしてまた,おおらかな性格といいますか,

皇太子さまに似ましたのか,何ていうのかしら,ゆったりと,どっしりとしておりますので,

その点健康に恵まれた子供を持っているということは,そうでない方もたくさんいらっしゃるわけなので,

本当に恵まれたことだと思って有り難いことと思っております」と言った。

マサコにしてみれば、「うちの子は幸いにして恵まれている」というつもりで

「そうでない方もいらっしゃるわけで」と発言したのだが、記者達の間には一瞬、微妙な空気が流れた。

さらに1年を振り返ってと質問された時、

 「6月にはサッカーのワールドカップということで,これは史上初めて日本と韓国と2か国で

共同開催をするということで,関係者も大変に力を尽くして準備を進めたことと

思いますけれども,これが大変な成功のうちに終わって本当に良かったと思いましたし,

また,その成功の陰には,高円宮同妃両殿下の,皇族としての初めての韓国へのご訪問,

これもとてもきっと気をお遣いになることが多いご訪問でいらっしゃいましたと存じますが,

本当に素晴らしい成果をお上げになっていらっしゃって,ワールドカップそのものの

成功のためにも,宮さまは大変にお力をお尽くしになられていらっしゃいましたので,本

当に成功のうちに終わって良かったなという印象でございます」とこれまた長々と話したかと思えば

「やはり日本の国内にあっては北朝鮮の拉致の問題でございますね,

こちらが明るみに出て,そしてその被害に遭われた方のうちの

何名かが帰国されたというようなこともございまして

また亡くなられてしまったと言われている方々もいらっしゃるわけで,

本当にその被害に遭われた方々,そしてまた,そのご家族のお気持ちを思うと,

本当にこれは胸が痛むことで,本当にお気持ちを察するに余りあることであったのでは

ないかと思います」

これまたマサコにしてみれば、報道されている通りの印象を話したにすぎないのだったが

拉致が「明るみに出て」と言ってしまった事や、「亡くなられてしまったと」と発言した事が

またも微妙な空気を産んだ。

その後は延々と「中東問題」を論じたので、さらに空気は凍りつく。それに気づかないのは

マサコだけだった。

あまりに長々と政治問題に触れているので、たまらず、ライフワークなどについて質問したり

さらにアイコについて話したりしている間にやっとの事で1回目の記者会見が終わった。

マサコの「恨」を晴らすチャンスはまだ来ない。

 

次に皇太子も加わっての記者会見となった。

皇太子はまず

「始めにタカマドノミヤ殿下の突然のご逝去に大変驚いております。

今でも信じられないような気がいたします。

高円宮妃殿下そして3人の女王さま方のお悲しみもいかばかりかと拝察いたします。

高円宮殿下には,私が幼少のころから亡くなられるまで終始温かく見守ってくださり,

また,ときには相談に乗っていただくなど,私にとって兄のような存在でした。

本当に残念です。皇族として幅広い分野で活躍され,国民と皇室との大切な橋渡しをされたと思います。

心からご冥福をお祈りいたします」と言った。

なぜ、身位が下の「女王方」に「様」付けをしたのか、記者達はいぶかったが、皇太子に

してみれば、ヒサシの作った大まかな文章のまま答えていたのだった。

それはマサコも同じだった。

「ご質問にありましたように,今回公式の訪問としては8年ぶりということになりまして,

ニュージーランドとオーストラリアを訪問させていただくことができることになり,

大変うれしくまた楽しみにしております。

中東の諸国を訪問いたしました折のことは今でもとても懐かしく

本当にいい経験をさせていただいて,その時の思い出は今でも皇太子さまとよく話題にしたりして

おりますけれども」と結ぶ。

中東を訪問した時は震災があったのだ・・・という事をもうすっかり忘れているようだった。

さらに、「いい経験をさせて頂いて」とまるで留学気分だったように感じられ、またも記者達はしらけた。

しかし、喋っている間に段々とマサコの言葉に熱を帯びてきた。今がチャンスだった。

もう誰にも止められない。

「その後8年間ということで,そのうち最近の2年間は私の妊娠そして出産,子育てということで

最近の2年は過ぎておりますけれども,それ以前の6年間,

正直を申しまして私にとりまして,結婚以前の生活では私の育ってくる過程,

そしてまた結婚前の生活の上でも,外国に参りますことが,頻繁にございまして,

そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから,

6年間の間,外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は,

正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます。

今回,昨年子供の愛子が誕生いたしまして,今年,関係者の尽力によりまして,

ニュージーランドとオーストラリアという2か国を訪問させていただくことができることになりました

ことを本当に有り難いことと思っております」

と言ってしまった。

記者達は非常に驚き、その時のマサコのこわばった顔を集中してカメラに収める。

さらに関連質問で「海外に行けなかった事に努力をした」とはどういう風に努力したのかというのがあり

それには胸をはって

「子供が生まれましてからいろいろ状況も変わっておりますので,

その前のことをはっきりと思い出すのもなかなか難しい面もあるのですけれども,

やはり国民の皆さんの期待というものが,いろいろな形での期待があって,

その中には子供という期待もございましたし,他方,仕事の面で外国訪問なども国際親善と

いうことでの期待というものもございまして,

そういう中で,今自分は何に重点を置いてというか,何が一番大事なんだろうかということは,

随分考えることが必要だったように思います」と言った。

わかりにくい言葉だったが、要するに「世継ぎを産むよう期待されたが、自分としては

外交をやって行きたかったのだ」と答えたのである。

それは心からのマサコの願いだった。

これだけの事を言い放ち、かなり彼女は満足し、でも国内をないがしろにしたと

思われては心外なので

「結婚後,いろいろな機会に恵まれて,国内各地を訪問することができまして,

それは,私のそれまでの生活の中では,なかなか国内の各県をまわったりということは,

それまでは余り経験―もちろん私的な旅行で観光地のような所をいろいろ訪れるという

機会はもちろん何度もございましたけれども―いろいろな地方へ行って,

その地方の特有の文化ですとか,食事ですとか,施設,いろいろなものを見せていただいたり,

そういう中で,国内のことについていろいろな事の理解を深めることができたということはとても大きく,

私にとっても財産になったと思っております」

と続け、けれどやっぱり外国がいいんだと言いたいが為に

「そして,もちろんこちらにおりましても外国からのお客様をお迎えしたりとか,

また,両陛下がお迎えになる外国のお客様とお会いしたりという形では,もちろん,

外国の方とのつながりというものは続けてきたわけではございますけれども,

今回久しぶりに公式に訪問させていただくということで,それから,申し忘れましたけれども,

公式の訪問以外には,ジョルダンのフセイン国王が亡くなられた折のご葬儀と,

それからベルギーの皇太子殿下がご成婚なられた時には,そちらに伺わせていただくことができましたことも

大変有り難かったと思っております」

と〆、満足げな微笑みを浮かべた。

ヨルダンをジョルダンと発音した所に、マサコの外務省出身であるプライドが見え、

けれど、「フセイン国王が亡くなられた葬儀」に「うかがわせて頂くことが出来ました事も・・・有難かった

と」非常に失礼なセリフを発した事には全く気付いていなかった。

 

次の日から怒涛のように

「6年間の間,外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は,

正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」

のセリフがテレビから流れ始め、それに対するコメントも多数始まった。

よくも悪くも、これがマサコの「病気」の前兆となったのだった。

 

 

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