「え?」
ノリノミヤは思わず言葉を失った。
エアコンが丁度良く効き、明るい色調でまとめられている部屋はいつもと変わりなく
暖かで、調度品も飾ってある花ですら平和で落ち着いた雰囲気をかもしだしている。
にも関わらず、皇后はうっすら涙ぐんでおり、天皇はつとめて平静を装いつつも
明らかに動揺している風だった。
「前立腺ガンだそうだよ」
数日前の定期健診で見つかったのだ。
「まだ初期だから・・・来月手術と言われたね」
「・・・・」
ノリノミヤは言葉を失い、頭の中がぐるぐるとまわるのを感じた。
先帝が崩御されたのもガンだった。
あれから15年近く。やっと今上自身の世の中になってきた・・・・ところだった。
「私のせいですわ。私がもっと気をつけていれば」
皇后が弱気な事を言い出す。
「私の精進が足りずにこんなことに」
「ミー」
天皇は皇后をたしなめる。
「そんな事を言っても仕方ないよ。自覚症状なんて何もなかったんだから。
何がどうしてガンになるか、なんて誰にもわからないんだからね」
「でも・・・でも・・・」
皇后の弱気な態度を見るのは初めて・・・というようにノリノミヤは思った。
思えば結婚していらい「夫の愛」に支えられ、それだけを頼りに皇室で生きてきた人なのだ。
今ここで、「もし」などという事があったら皇后はその「柱」を失う事になる。
皇族でもなく華族でもなかった皇后にとって、天皇はたった一つのよりどころ。皇室にいる「理由」そのものだった。
「おたあさま。今はそんな事をおっしゃっている場合ではなくてよ。ドンマーインです」
宮は仕切るように元気に言う。
「この事を東宮のお兄様方にお話になるのでしょう?手術の日程はまだお決まりではないの?」
「年末年始は行事が多いからね。年明けの16日という事になりそうだよ」
「本当は今すぐでもと思っているけど、陛下がご承知にならないの」
「天皇にとって年始の祭祀は重要なのだよ。ミーもそれはわかるだろう」
「そうはおっしゃっても」
「手術は宮内庁病院で?」
ノリノミヤはとりとめのない老人二人の会話をばっさり切り落とし、次へ話を進めた。
皇后は頷く。
「そう・・・そうよ。宮内庁病院」
「マスコミへの発表は」
「そうだったね。すぐに侍従長を呼ばなくては。我ながら動揺しているようだ」
天皇はすぐさま侍従長ら側近を呼び、話を進める。
侍従長らは無論、この事を知っていたし、だからといって容易に外に漏らすものでもない。
表情はどこまでも「無」に徹して事務的である事が今はありがたかった。
ノリノミヤは、天皇病状は今すぐどうのうこうのではないという事、手術は内視鏡を使って行われる事。
術後は半月ばかり入院しなくてはならないこと。主治医は東大の専門医があたる事などを
確認すると、それを東宮とアキシノノミヤ家に伝えさせた。
アキシノノミヤ家はすぐにかけつけたが、驚いたのは東宮家の無関心ぶりだった。
侍従を通して病気を伝えたのだが、駆けつけるどころか「わかりました」の一言で
ノリノミヤは思わず「ひどいわ」と叫びそうになった。
しかし、そんなことで怒っている暇はない。
宮はこの時、あらためて自分の両親が年老いており、助けになるのは自分しかいないのだと
確信した。人は誰でも自分の親だけは死なないと思う。いつも元気だと思う。
今まで何度も手術をしたり倒れたりした皇后でさえ、本当の事をいえばそこまで大仰には
考えていなかった。
でも、普段は本当に健康そのもので、側近も細心の注意を払っている筈の天皇ががんになるとは。
この事のショックは図りしれない。
「何でもお手伝いするから一人でかかえこまないように」
とキコに慰められ、ノリノミヤは自分を奮い立たせたのだった。
家でテレビを見ていたヒサシは、その報道を聞くなり複雑な顔をしてユミコを呼んだ。
「陛下がガンだそうだ」
ユミコは今しがた電話をしていたようで、「まあ、あなたも気をつけなきゃね」と言いつつも
上の空だった。
「わしは大丈夫だよ。毎朝、お題目を唱えているじゃないか」
「そんな事言ったって」
ユミコはそれほど信心深くはないようだった。
「どうしたんだ?誰からの電話だったんだ?」
「まーちゃんよ」
「陛下のガンの事は話していたか?」
「いいえ。全然」
「全く、なんて奴だ。こういう時こそ駆けつけて点数稼ぎでもしとけばいいのに」
「まーちゃん、それどころじゃないのよ」
「天皇の病気以上に「どれどころじゃないもの」とは何だ?え?」
ヒサシはちょっとイラついて言った。
天皇は自分より一歳年下だった。同年代の病気というのは、非情に堪える。
明日は我が身とも思うし、人生の下り坂を歩んでいるのだと実感するからだ。
「お題目を唱えているから」などとうそぶいてみても、内心ははらはらしている。
天皇は毎日、きちんとした食事をしているし、医者がつききりの筈ではないか。
やっぱりガンの家系というのはあるのだろうか。
そんな思いがよぎっている所に、娘の無関心はカチンときたのだ。
「アイちゃんがね。変だっていうの」
「は?何が?」
「ほら、この間、一歳児検診を受けたでしょう?その時に多少ひっかかったらしいのよ」
「何か身体的な欠陥があるのか?」
ヒサシは身を乗り出した。トシノミヤはヒサシにとっても初孫である。
男子でなかったのは残念だが「皇族の孫がいる」事に変わりはない。
一種の箔にはなる筈だった。
「言葉が遅いとか歩き出すのが遅いとか言ってたでしょう?アイちゃん、どうも内反足らしくて
やっぱり装具をつけなくちゃいけないらしいの」
「装具?」
「ええ。寝る時だけ足を矯正するのよ。それで治らないと手術なんですって」
「治るならいいじゃないか。偏平足なんていくらでもいるだろ」
ヒサシは偏平足と内反足をごっちゃにしている。
「それだけじゃないの。もう1歳なのに、ほとんど言葉が出てこなくて・・・もしかしたら」
ユミコはちょっと言葉を切った。
「もしかしたら何だっていうんだ?」
「ううん・・・まだわからないものね。でもまーちゃんはひどく心配しているのよ。それで私に
まーちゃんの時はどうだったかって聞くから、別に問題はなかったって言ったの。
まーちゃんも多少言葉が遅かったけど、そんな心配する程の事ではねえ・・・・」
「言葉が遅い方が頭がいいというぞ」
ヒサシは言った。
「毎日、英語のCDをきかせればそのうち英語で会話するようになるさ。これからの人間は
外国で活躍しないといけないんだ。日本語より英語だよ。日本人は英語が苦手で困る。
だから国際的に活躍できないんだ。こればかりはどうもなあ・・・・」
「英語より日本語より、情緒的な問題ではないかって」
ユミコは楽観的には考えられないようだった。
「とにかく東宮御所にもう一度連絡して、すぐに参内しろと伝えろ。実際に行かなくてもいい。
そういうパフォーマンスを見せる事が大事なんだと。ああ、この歳になっても娘に煩わされるとは。
来年はオランダへいくというのに」
そうだった。ヒサシはついに国際司法裁判所の判事としてオランダへの赴任が
決まったのだった。
ヒサシにとって人生はどこまで階段を駆け上がれるかの持久走のようなもの。
その一番上には「勲章」が待っている。
半島系の名もなき自分が、いつか国民の最上級に駆け上がる事。それが夢なのだ。
娘を皇室に嫁がせたのもその一つ。
しかし、てっきり国連大使になれると思ったのに「皇太子妃の父がそのような仕事につくのはいかがなものか」
と言われ、長い間無聊をかこってきた。
外務省ではからさまに
「普通は、娘を嫁がせた段階で引退するのものでは?ショウダ家は引き際が良かった」
などと陰口をたたかれる始末。
ヒサシはそんな事を言われてもお構いなしだった。政治的に利用できないものなど
この世に存在してはならないからだ。
どんな悪口も陰口も怖くはない。
いつか自分が最上段にたって、総理大臣や天皇ですら陰から操れるような人間になれば。
だから、しつこくしつこく、本当にしつこくポストを与えろと運動して来た結果。
やっと国際司法裁判所に行ける事になったのだった。
オランダへ行けばしばらくは帰国出来ない。
その間にアイコが少しでも大きくなり、「女帝」への道が開かれればそれでよかった。
もしかしたら天皇も長くないかもしれない。
同世代としては不安になる「がん」がもしかしたら今の自分達には幸運の女神になるかもしれない。
皇太子がわりと早く皇位につけば、自分は天皇の義父であり、アイコが皇太子になれば
「将来の天皇の祖父」だ。
そう思うと自然に笑みがこぼれてくる。
「まあいいか」
ヒサシは何のきなしにそういってふふっと笑った。
年があけ、全ての新年行事が終わった16日、天皇は入院した。
付き添ったのは皇后とノリノミヤだった。
車窓にうつる皇后の厳しい顔とノリノミヤの冷静な表情は対になって見えた。
ノリノミヤはどうしても病院に泊まるという皇后に
「わかったわ。でもおたあさままで倒れたら大変ですもの。お気をつけ遊ばして」と
励ましの声をかけた。
手術当日も手術室の前で見守ったのは皇后とノリノミヤ。
「おもうさま、お祈りしているわね」
「あまり大げさに考えないように。ミーを頼むよ」
「大丈夫。ドンマーインだわ。私に任せて」
天皇は娘の頼もしい言葉に送られて手術室に入ったのだった。
ノリノミヤは天皇皇后不在の皇居において、全てをとりしきり、的確な指示を与え
その一方で宮家方の見舞いのスケジュールを調整したり、また付き添っている
皇后にひざ掛けや本などを差し入れたり、天皇には孫達の写真を送るなど
献身的に影となり尽くした。
そのノリノミヤの顔には一種の「覚悟」のようなものも見え、今までの人生、大方は
自分の為ではなく皇室の為に生きて来たようなものだが、今後は尚一層そうしようと
心に決めたかのようだった。
そんな妹の姿に、アキシノノミヤは心を痛めた。
今まで、どてほどこの妹に甘えて来たことか。
こちらは内廷外皇族で、全てにおいて制約があり、積極的に動こうとしない東宮にさらに
遠慮を強いられて身動きがとれない。また日々の公務の忙しさもある。
そんな中で、ついつい天皇と皇后の問題はノリノミヤに丸投げしてきたのだ。
これからも、それでいいというのだろうか。
この3歳年下の妹が今後も皇族として、不惜身命の人生を生きるにはあまりにも不憫だ。
日本中が天皇の病状を心配し、支える皇后に同情している時、兄は妹の幸せを
心から願っていた。