東宮御所はいつになくはりつめた空気が漂っていた。
部屋にいるのは皇太子夫妻と東宮付の医師。それから小児精神科医。
内親王が生まれてからずっと見守り続けてきた小児科医たち。
「どういうこと」
マサコは何が何だかわからないというような顔をする。
無論、それは夫の皇太子も同様だった。
「ですから」
医師はゆっくりと話し始める。これで3度目くらいだ。
「トシノミヤ様は、多少なりとも発達に遅れがございまして」
「遅れているってどういう事なの」
「例えば、言葉が非常に遅い事。さらに、ご両親と目を合わせない等
色々あり。自閉症の疑いが濃いかと存じます」
「自閉症」
言葉は知っている。でも、それは小さい頃から子供のしつけが出来なかった
結果や育て方が悪いから起こる障害ではなかったか。
「うちはちゃんと育ててるわよ」
「妃殿下。自閉症というのは環境に左右される病気ではないという事は
最近、きちんと証明されております。脳に先天的な機能障害があるのです。
人によって現れ方は様々でございます。例えばIQが低い子もいれば
ある一部分にだけ、例えば記憶や数字といったものに異常な程高い
数値を示す子もいます。また表面的には全く異常がないのに、いわゆる
社会的に適応できないというケースもあり・・・・」
「わかるようにいいなさいよ。つまり何なの?うちのアイコは障碍者だっていうの?」
「まだはっきりとは。ただ、その可能性は高いという事です」
「それは本当なの」
ぼそっと口を挟んだのは皇太子だった。
「どうしてそうなるの」
「わかりません。まだはっきりとは。遺伝的傾向が強い事はあると思いますが」
「遺伝」
「だったらうちじゃないわ。あなたの方でしょ」
マサコは大声を出してきっと皇太子をにらみつけた。
「天皇家って血族結婚が多いから頭のおかしいのが何人も生まれているじゃない。
血が濃いからよ。あなたの血よ。私が悪いんじゃないわ」
「私が悪いんじゃない」の部分は、ほぼ叫びに近かった。
皇太子は居場所がない・・・というように黙り込む。
「そういえば、あなたの伯母様も変な人いたわよね。そういう家系なんじゃないの。
信じられない。私って、騙されたんだわ。何が高貴な家よ。ただの血族結婚
一族じゃないの」
「妃殿下」
たまりかねて東宮医師団の長が口を出した。
「本当の原因はまだわからないのです。殿下をお責めになってはいけません」
「じゃあ、私が悪いっていうの?うちの家系にそんなのはいないもの」
「誰のせいでもございません。ただ事実を受け入れて療育を」
「そんな事出来るわけないじゃないの!」
ついにマサコの中で何かがはじけてしまったようだ。皇太子がびくりとして
妻を呆然と見つめた。
マサコは大きなこぶしをにぎりしめ、それで思い切りテーブルを叩いたのだ。
それは皇太子にとって「初めて」の暴力体験だった。
ばん!とテーブルに叩きつけられたこぶしは、茶卓をゆるがし、茶碗から
茶がこぼれた。
皇太子はびっくりして思わず「マサコ・・・」と情けない声を出してしまった。
しかし、ここまで来るともうマサコの感情は自分では制御出来ないようで
「何が療育よ。アイコは自閉症ですって?そては間違ってるわよ。誤診よ。
あなた達は日本で一番偉い医者なんじゃないの?なのにどうして
そんな診断を出すのよ。どうして治せないのよ。あんまりだわ。お父様に
言って首にしてやるから。すぐに違う医者を探すべきよ」
「妃殿下・・・・妃殿下・・・・」
あまりの取り乱しように、部屋のドアがあいて、侍従と女官が飛んでくる。
「落ち着き遊ばして下さい。妃殿下」
「うるさいわね。私は正気よ。間違っているのはこの人たち。私の娘を侮辱
したのよ。許せるもんdすか。絶対に許さないから・・・」
と言った所で、マサコは突如意識を失って倒れこんでしまった。
あわてて女官が抱き留め、医師達が脈を取る。
「早く、お部屋に」
医師団の長は脈を診てから指示し、マサコは風よりも早く自分の寝室に
運び込まれた。
後から追いかけて部屋に入った皇太子はただおろおろするばかり。
「だ・・・大丈夫なの。マサコは」
「興奮しすぎたようです。ただの発作かと」
「ああ・・・・」
皇太子もまたベッドのわきに崩れ落ちてしまう。
「殿下・・・・」
「僕はどうしたらいいんだろう。アイコが自閉症だなんて。何でそうなったのか
全然わからないよ。やっぱりマサコの言うように、天皇家の血のせいなのかな。
だってほら、大昔に気が狂った天皇がいたじゃない・・あれは・・冷泉帝だったかな。
それだけじゃないよ。タカツカサのおばさまも、イケダのおばさまも
何だか変だったもの。あれもやっぱり天皇家の血のせいなの?」
「何度も申し上げますが、原因はわからないのです。一口に自閉症と言いましても
様々なタイプがあり、それにあわせて療育する事が必要です。
タカツカサ様もイケダ様も、無事にご結婚されたではありませんか。
少しおっとりしたお姫様だと思われればよろしいのです。あとは専門家を
雇ってきちんと内親王としてのお躾をなさいませ」
「そんな事、マサコが認めると思う?療育だなんて」
医者達は内心(娘が可愛くないのか)と腹が立ってきた。
皇太子は二言目には「マサコが」と言うが、この場合、父親として適切な
判断をするべきではないのか。
もっとも、先ほどのテーブルを叩きつけたことといい、ぶっ倒れた事といい
皇太子には刺激が強すぎたようだ。
すっかりおびえてしまっている。
「それにしても何で・・・何でアイコが。やっぱり血筋なのかな。血族結婚が
多かったせいなのかな。僕は今日ほど自分の中に流れる血を恨んだ事はないよ」
「天皇家の血のせいではありません。誰にでも起こりうる事でございます」
「でもマサコが」
「先ほど倒れられたご様子を拝察するに、妃殿下自身も何等かの精神的な
病を抱えている可能性があります。一度きちんと精神科医の診察を受けては」
「マサコが精神病だっていうの?」
今度は皇太子はむっとした顔をする。
「要するに僕とマサコと両方の血が悪いっているの?」
「そうではありません。内親王殿下は今後のご教育次第によっては
沢山の可能性を引き出すことも出来るのです。前向きになって頂きたい」
医師団の必死の願いも今の所、耳に入らないようだった。
夢の中で一人ぼっちの少女が泣いている。
暗闇の中でしくしくと泣いている。
あれはアイコ?いや、違う。泣いているのは自分だ。
小さな頃から無性に不安にかられる子供だった。
世の中の全てが彼女にとっては「不安」材料だった。
どうしてこんな、怖い世界で当たり前のように生きていられるのだろう。
たった一つの光。それは父の愛だった。
誰が認めてくれなくてもいい。父が愛してさえくれれば。
でも、その父が自分に望んだ事は、この怖い世界で表に立って生きる事。
時々、人々の言葉が全く理解できない事がある。
何を言っているのかさっぱりわからないのだ。
でも、わかるふりをしないと・・・・見破られたら「自分」という存在は
ズタズタになってしまう。
回りの要求はどんどんハードルを上げてくる。
どうしたらいいのか・・・本当にわからない。
はっと目覚めたマサコは汗びっしょりになっていた。
女官が「お目覚めですか?」と声をかけた。
マサコは答えず黙り込む。
「妃殿下」
女官がもう一度声をかけたが、マサコは答えなかった。
「皇太子殿下にお報せを」
女官がさらに女官に伝え、部屋に駆け込んできた皇太子は
ほっとしたようにマサコの手をとった。
「よかった。いきなり倒れるから驚いたよ。もう大丈夫なの?」
けれどマサコは答えなかった。
「どうしたの?」
「違う」
やっと一言、マサコは答えた。ようやく人間の言葉が理解出来たという風だった。
「私のせいじゃないわ。私は悪くない」
そう言いつつも激しい絶望感にマサコは全身の力を奪われていた。