「誰が許すというんだ!」
東宮大夫の声は部屋に響き渡り、みな震え上がって立ち尽くした。
古参の女官達は「こんな風景、以前にもあった」と思った。
歴代の東宮大夫は、必ず一度はこんな風に怒鳴る。
大抵、皇太子かマサコが言い出した事で。
ひたすら頭を下げているのは東宮侍従長と女官長。
慣れっこになっているのか、それとも「黙る」しかないと思っているのか。
ただ、彼らにしてみたら、自分達の意思で東宮大夫を怒らせているのではない
という事だ。
「何だってそんな事を言い出したんだ?だれかたきつけたのか?」
侍従長は何と答えたらいいのかと迷いつつも、小さな声で
「妃殿下が・・・」と言った。
「妃殿下がなんだ」
「妃殿下が、突然、公園デビューをなさりたいと」
今風の「公園デビュー」という言葉が年寄の侍従長の口から出たので
女官達は思わずくすりと笑った。
すると、東宮大夫は正反対にますます怒って
「何が公園デビューだ。東宮御所には広い庭が沢山あるじゃないか。
え?芝生も砂場も滑り台も・・・何だって内親王の為に用意してある。
何が気に入らない?一般庶民の行く公園の砂場など、どれだけ不潔か
わからない。何でそんな所に行きたがるんだ?
東宮御所が気に入らないなら吹上にでも行けばいいじゃないか」
「そういう事ではなく」
女官長が口をはさむ。
「妃殿下は内親王を、普通の子供が集まる場所にお連れになりたいと」
普通の子供!!
普通の子供とはどういう意味なのか。
東宮大夫は思わず言葉を失った。
「それはつまり、普通の子供なんだな」
女官長は頷く。
東宮大夫は先ごろ、内親王に障碍があるという事を聞かされていたし
その件に関しては同情もしていた。
けれど、皇室の長い歴史において「ごゆっくり」な事は罪ではないし、悩む必要も
ない。内親王が女であった事が幸いしている。
このまま、専門的な指導の下、静かに御簾のうちに暮らしていくのが一番
いい事だと思っていたからだ。
それこそ、普通の子供のように小さい頃から競争にさらされる必要がないし
一人で生きていく必要もないのだから、むしろ恵まれている。
にも関わらず東宮妃は「普通の子供と同じように」と言っているのか。
「公園で遊んだからって何が変わるんだ?」
「妃殿下は、トシノミヤ様は障碍をお持ちなのではなく、回りに同じ年頃の
子供がいない為、つまり刺激の少ない環境にある為、おっとりとなさって
いるのだと思われて」
「だったら子供を東宮御所に呼べばいい。学友の選別は始まっているのだろう」
「宮内庁が選ぶお友達は嫌だと」
東宮大夫の眉間には皺が刻まれ、その目は怒りに燃える。
「こっちが選んだ学友は嫌だって?家柄、信用性、皇室との関わりなどを
あらゆる点から調査して完璧な家を選んでいるのに」
「妃殿下は」
今度は侍従長が口ごもりつつ言う。
「そういうのがお嫌だと。そして皇太子殿下も同じお気持ちであると」
また沈黙が漂った。
堂々巡りである。そもそも入内した時からあの皇太子妃は全てに不満を
持っていた。
東宮御所の食事、侍従や女官のスケジュール管理。
こちらが提供するものは全て嫌な人なのだ。
全く。なんだって皇太子はあんな女性を選んだのか。
そして皇太子は感化されている。
出産後、皇太子妃はホルモンの関係もあるのだろう。
何かにつけて攻撃的な口調になっていた。
女官が作る粉ミルクに文句をつけたり、内親王をあやす女官の手から
ひったくってみたり・・・怒ったりイラついたりすることが多くなった皇太子妃に
誰もが恐れを抱き始めている。
そして今回、ありえない「公園デビュー」の話が持ち上がったのだ。
「こちらが選んだ子供が嫌だというなら、ご夫妻で選定して呼べばいいだろう」
「でも」
女官長がまたもいいつのる。
「とにかく、トシノミヤ様を普通の環境に置きたいと。そればかりで」
「皇族が一般の中に入ると混乱が生じるという事を説明したのか?
公園に行く・・その公園の下見に始まって砂場などの消毒や近隣住民の
身元調査。行く当日は一般人を遮らないといけない。
何だってそこまでする?そんなことをして何が変わる?庶民のささやかな公園
遊びを奪う事に何の意義がある?そう聞いたか?」
「皇太子ご夫妻はそのような手続きをお待ちになれないそうです。
明日にもお連れになると」
「明日!」
東宮大夫は叫んだ。
「明日は何の日か知っているだろう?」
明日は、皇宮警察音楽隊の創立50周年式典があり、天皇・皇后と
皇太子夫妻が出席し、楽隊の演奏を聞く日だった。
常日頃、皇族の安全を守る為に奔走している皇宮警察。そして式典などの
儀仗を務める皇宮警察音楽隊に関しては、両陛下とも大切に思い
必ず出席してきたものだ。それが皇宮警察への感謝の表し方だった。
「それは欠席なさるそうです」
「何だと!」
ついに爆発。東宮大夫の怒鳴り声は外まで聞こえた。
「公務をなんと心得るか!」
ああ・・・情けない気持ちで一杯になる。
オワダ家のような得体の知れない家から出てきた妃はともかく
皇太子は天皇の息子だ。しかも後継ぎの長男で小さい頃から
それはそれは厳しくしつけられてきた筈なのに。
簡単に公務を休むなど・・・・・
ふと、脳裏によみがえる。先帝がガンに冒された体を必死に動かして
宮中晩さん会に出た事や離島をヘリコプターで視察した事を。
最後の戦没者慰霊祭の時は、本当にお辛かった事だろう。
にも関わらず愚痴一つこぼさず粛々と公務をこなされた。
そのお姿を見て来たからこそ、今上もまた同じように生きておられるのだ。
それなのに。
内親王の公園デビューの為に公務を休むと軽々しく言うとは。
「ダメだ」
東宮大夫は言った。
「今言って今すぐ動く事など出来ない。公園の調査も近隣住民の身元確認も
今日中になど出来る筈がない」
「そんな事は望まれておりません。ひたすら自然な形で公園に行きたいのです」
侍従長も女官長もうんざりした様子で言う。
「普通の夫婦が子供を公園に遊びに行かせるように・・・・・と」
「だからそれは御立場上無理だと言ってるじゃないか」
「そこを無理にでもとおっしゃっているのです」
女官長の言葉は悲鳴のようだった。
「私達も困っているのです。いくら理を説いても少しもおわかりいただけない。
私達を責めるばかりで。妃殿下はご出産後数か月で公務復帰をさせられた事を
今も恨みに思っておいでです。皇族は国家公務員のようなものなのに
育児休暇を取る権利もないのかと。でも我慢していらした。
皇族には休む権利もないと嘆いて感情的になると、ものを投げたりするので
本当に困るのです。皇太子殿下はいさめるどころか同調してお怒りになるし。
しまいには、皇太子の言う事が聞けないかとどりゃあものすごい剣幕で。
最近の皇太子殿下は・・本当に声を荒げる事が多くなりました」
結果的に東宮大夫は皇太子夫妻の私室へ行くハメになった。
部屋で待ち構えていた皇太子妃はうっすらと笑顔さえ浮かべて
「聞いたわよね?明日、公園に行くから」と言い放った。
東宮大夫はその威圧感に負けまいとして
「明日は皇宮警察音楽隊の50周年の音楽会があります」
「休むよ」とぼそっと言ったのは皇太子だった。
「音楽よりアイコの方が大事だからね」
その言葉に一切の迷いはなかった。
皇太子は妃を庇う事で存在意義を感じているのではないか?
それはまるで悪人を庇う善人のようで・・・・なんというのだったか
そうだ。ストックホルム症候群ではないか。
「しかし公務は」
「公務より大事な事があるんだよ」
いつも目が笑っている皇太子が珍しく声を荒げる。これが女官長の言っていた
「変化」なのか。
「両陛下には何と」
「あとはよろしく」
こういう時は真っ先に逃げ出そうとする。皇太子は立ち上がり
「アイコの部屋に行くね」と言って出て行った。
そんな皇太子を見送る事もなく、マサコは椅子に座ったまま
「皇太子殿下がああ言ってるの。アイコがどんなに大事な子かわかるでしょう?
今は内親王かもしれないけど、将来は皇太子殿下の後を継ぐことに
なるかもしれないのよ。その子の養育をするのに、音楽会の一つや二つ
なんだというのよ」
悪びれもなくマサコは話し続けた。
「アイコは皇太子殿下の娘、天皇の孫よ。アキシノノミヤ家の女の子達より
ずっと偉いんだから」
「しかし内親王には内親王にふさわしい教育の仕方があると存じます。
妃殿下はいろはを覚えるより先に英語を教えていらっしゃった。
けれど内親王がは日本の皇室の姫である事に変わりはないのです。
英語よりも日本語を、遊びよりもご挨拶を覚えて頂く方が・・・・」
「アイコが挨拶出来ないって言うの?」
マサコは仁王立ちしてテーブルにかかっているテーブルクロスを投げつけた。
「出て行ってよ。東宮大夫のくせに私に逆らうなんて。覚えていなさい。
絶対に許さないから」
会話にならなかった。
東宮大夫は皇太子妃に負けたのだった。