戦後70年を迎える感想
「今年八月に欧州では第一次大戦開戦から百年の式典が行われました。
第一次、第二次と二度の大戦を敵味方として戦った国々の首脳が同じ場所に集い、
共に未来の平和構築への思いを分かち合っている姿には胸を打たれるものがありました。
私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の
強い恐怖を忘れることが出来ません。
まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、
従ってその時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、
個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、
身の震うような怖(おそ)れであったのだと思います。
「怖れ」という言葉を誤解されないように「憎しみ等であろう筈はなく」と書いて
おられますが。私は当時の中学生ならやっぱり「A級戦犯に死刑判決」と聞けば
「あんなひどい戦争を引き起こした責任を取る為の死」という感覚を持たれたのでは
ないかと思います。
戦後の日々、私が常に戦争や平和につき考えていたとは申せませんが、
戦中戦後の記憶は、消し去るには強く、たしか以前にもお話ししておりますが、
私はその後、自分がある区切りの年齢に達する都度、
戦時下をその同じ年齢で過ごした人々がどんなであったろうか、
と思いを巡らすことがよくありました。
ここの部分は陛下も同じで、それが対馬丸への慰霊などに繋がっているのだと思います。
両陛下は生きているけど、同世代の人達があの時、一歩間違ったら空襲で死んでいたかも
しれない、あるいは、戦後、人生が崩壊するような出来事にめぐり合ったかもしれない。
はからずも両陛下は、そのようなものから「守られて」生活してきた事に対する、罪悪感かなと。
まだ若い東宮妃であった頃、当時の東宮大夫から、
著者が私にも目を通して欲しいと送って来られたという一冊の本を見せられました。
長くシベリアに抑留されていた人の歌集で、中でも、帰国への期待をつのらせる中、
今年も早蕨(さわらび)が羊歯(しだ)になって春が過ぎていくという一首が特に悲しく、
この時以来、抑留者や外地で終戦を迎えた開拓民のこと、
その人たちの引き揚げ後も続いた苦労等に、心を向けるようになりました。
最近新聞で、自らもハバロフスクで抑留生活を送った人が、
十余年を費やしてシベリア抑留中の死者の名前、死亡場所等、出来る限り正確な名簿を
作り終えて亡くなった記事を読み、心を打たれました。
戦争を経験した人や遺族それぞれの上に、長い戦後の日々があったことを改めて思います。
第二次大戦では、島々を含む日本本土でも百万に近い人が亡くなりました。
又、信じられない数の民間の船が徴用され、六万に及ぶ民間人の船員が、
軍人や軍属、物資を運ぶ途上で船を沈められ亡くなっていることを、
昭和四十六年に観音崎で行われた慰霊祭で知り、その後陛下とご一緒に何度かその場所を訪ねました。
戦後七〇年の来年は、大勢の人たちの戦中戦後に思いを致す年になろうと思います。
世界のいさかいの多くが、何らかの報復という形をとってくり返し行われて来た中で、
わが国の遺族会が、一貫して平和で戦争のない世界を願って活動を続けて来たことを尊く思っています。
遺族の人たちの、自らの辛い体験を通して生まれた悲願を成就させるためにも、
今、平和の恩恵に与(あずか)っている私たち皆が、絶えず平和を志向し、
国内外を問わず、争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが
大切ではないかと考えています。
「遺族会」・・・・どう解釈したらいいのか。
「平和」を志向する事が憲法順守であったり、安保体制反対だったり・・・だったのかなと。
ひねくれすぎてすみません。