東宮大夫と東宮侍従、そして東宮女官長が長官に呼び出されたのは
年が明けて、正月の祭祀や歌会始めなど、一連の行事が終わった後だった。
随分老け込んだな・・・東宮大夫は思った。
それも仕方ないかとも。
侍従長も女官長も言葉もなく立ちつくしている。
暖房が効いている部屋の中なのに、なぜか足が震えるような気がする。
こんな感覚は初めてだった。
「まあ、座りたまえ」
長官はソファを指さし、3人を座らせた。
すぐに熱い紅茶が運ばれてきた。
インスタントではない、本物の紅茶の茶葉だ。
「昔はインスタントでもなんでものめればよかったがね」
長官は少し微笑んだ。
「この歳になると本物の方がいいと思う。これはフォートナム・メイソンだよ。
色といい、香といい、何となく落ち着かないかね」
「紅茶はよくわかりません」
大夫は答えた。女官長は香を楽しみ、侍従長はすぐにカップを唇に持って行く。
「侍従長はせっかちだね。熱くないのかい」
「いや、なかなか・・・」
侍従長は言い訳のように言った。もくもくと紅茶を飲むしか何も術がないように。
「これもまた歳なんだがね。最近じゃミルクを入れるのが好きで」
長官は目の前に置いてあるミルクをたぷたぷと注いだ。バラ色の紅茶が
金茶色に変わる。長官はそれを心から楽しんでいるようだった。
「長官、本当にお辞めになるのですか」
思い切って大夫が口を開いた。
侍従長も女官長も「そこが一番聞きたいのだ」というような顔をして
カップを置く。
「やはりね・・・もう潮時だね」
長官は3人の食い入るような視線をやりすごしながら力なく言った。
「出来れば陛下にもう少しお仕えしたかったが。どうにもこっちがね」
胸を指さす。心臓・・・・というよりは「ハート」のようだった。
「自分の官僚生活がこんな形で終わるとは思わなかったが。仕方ないね。
時代の流れだからね」
「そんな。長官にはまだまだお仕事がおありになります。今、職務を離れられても」
女官長が訴えるように言った。
「私たちはどうしたらいいか・・・・」
「東宮には誰も勝てんよ」
長官は自嘲するような顔で言う。
「前にも話したと思うが。先帝の時代が終わってからこっち、常識と非常識の違いが
わからなくなってしまった。
それはね。皇室というもの、官僚と言うものはとかく先例主義だ。
先例がない事はやりたがらない。
それが欠点だと人は言う。まさにそうだろう。
しかし、先例があるから我々は間違わずにすむというのも事実だ。
時にはそれを破る必要はあるだろう。時には例外も必要だ。
しかし、やっぱりこういう組織は先例が第一であり、それが伝統やしきたりに
なっていくものなのだよ。
しかし。
今上の時代になって、その常識がいとも簡単に破られた。
平和を謳歌していた日本がテロに巻き込まれる、アメリカの本土にテロをしかける。
ありえない事が起こっている。
街が壊滅する程の地震に見舞われ・・・・もう先例もなにもない。
そんな中で皇室というのは、どんな事が起きても動じず、粛々と先例に従って
いくべきだと私は思った。
現在、皇室には「お世継ぎ問題」というどうしようもないレベルの問題が持ち上がっている。
私は皇室において「世継ぎ」以上の問題はないと思ってきた。
古代から続く125代の一系による即位を繰り返してきた歴史を考えてみたまえ。
2000年だよ?2000年もの長い間、途切れる事無く血の継承を続けてきたのだ。
その「続ける」という事が国家神道の基礎であり、天皇家の基本だと思って来た。
外国なんぞ行かずともいい、皇居からでなくてもいい。何もしなくていい。
天皇というのは、神と会話し、その血筋を繋げていく事が仕事なのだよ。
しかし。
まさか、その世継ぎ問題に関して、「NO」を突きつけられる事になろうとはね。
しかも理由は「プライバシーの侵害」だ。
プライバシーって何かね。皇族にプライバシーはあるのか?
さらに言うなら「キャリアと人格を否定した」と。
皇族にキャリアや人格があるのかね。
もう理解不能だよ。
それを言ったのがね、外から来た妃殿下である事はわかるんだ。
だって妃は皇族出身じゃない。皇族と結婚してその身分を得たにすぎん。
はっきり言ってしまえば、妃というのは借り腹だよ。
世継ぎを産むのが最大の仕事である・・・これは今時なんていうのかな。
セクハラか。そうセクハラでもなんでもいい。
しかし、子供を産めるのは女性だけだから、その能力を否定する事が
いいとは私は思わないね。
まして妃というのは「世継ぎ」を産み、育てるという名誉があるんだよ。
それを「プライバシーの侵害」だとして否定する・・・そんな皇族が
現れる事自体が想像できなかった」
堰を切ったようにあふれる長官の言葉に誰もが頷く。
「私も同じ気持ちですわ。妃殿下のおっしゃる事は何も理解できません。
確かにトシノミヤ様は障碍がおありになる。けれど、だからこそ
立派な内親王として御育てしなくてはならないのに、まるで
盾のように」
「盾・・か」
東宮大夫が静かに言った。
「2月の長野スペシャルオリンピックに皇太子ご夫妻が行く予定になっているのですが
妃殿下が首を縦に振らないのです。宮様を一緒にとおっしゃって譲らず」
「そう」
長官は少し語気を荒げた。
「皇太子妃は適応障害などという病ではない。宮内庁職員ならだれでも知っている。
いや、両陛下だってご存じだ。しかし、その病がまかり通る。
まかり通り、尚且つ助長し、病気を理由にやりたい放題になっている。
わからないのは皇太子殿下まですっかり洗脳されている事だ。
女性には皇位継承権がないのにも関わらず「アイコじゃだめか」とおっしゃるし。
「男女平等のさきがけになりたい」などと信じられない事を口になさる。
さらに・・・・ほら、アキシノノミヤの誕生日会見。
殿下はあれに激怒されたのだよ」
「ああ・・・例の人格否定発言に対する宮の見解ですか」
それはアキシノノミヤの誕生日会見で皇太子の「人格否定発言」に対する答えを
言った事だった。
「少なくとも記者会見という場所において発言する前に,せめて陛下とその内容について話をして,
その上での話であるべきではなかったかと思っております。そこのところは私としては残念に思います。
もう一つありましたね。東宮御所での生活の成り立ちに伴う苦労ですね,
これは私はどういう意味なのか理解できないところがありまして,
前に皇太子殿下本人に尋ねたことがありました。東宮御所の成り立ちに伴う様々な苦労とは,
皇太子妃になって,つまり皇室に嫁ぐとふだんの生活においていろいろな人がその周りで働いている,
近くで生活している空間においてもいろいろな人が周りにいる,
そういう人たちに対する気配りというか,配慮ということであったり,
なかなか容易に外出することが難しい,そういうことだそうであります。
そういうことを前提として私たちにそのような苦労があったかというと,
主に私というよりも家内に関係するのかなと思います。確かに東宮御所という大きい組織に
比べれば,
私の所はかなり周りにいる人たちの数も少ないので比べるというのは非常に無理があると思いますけれど,
それを踏まえた上でどうでしょうね」
と隣のキコを振り返った。
キコははにかみながら
「結婚してからの生活は,新しく出会う務めや初めて経験する慣習などが多くございました。
どのように務めを果たしたらよいか,至らない点をどのように改めたらよいかなど,
不安や戸惑いなどもございましたが,その都度人々に支えられ,試行錯誤をしながら経験を積み,
一つ一つを務めてまいりました」
と答えたのである。
皇太子夫妻にはこれらの言葉が非常に偽善的に聞こえたようだった。
さらに「三人目」の話になり、宮が
「長官が3人目の子供を強く希望したいということを発言いたしました。
その会見後しばらくして長官が私の所に来ました。
それについての説明をしに来たわけなんですけれども,その話を聞き,またその時の記録を見ますと,
私が昨年の記者会見で3人目の子供について聞かれ,
一昨年の会見でそれについてはよく相談しながらと答え,
昨年はその前の年の状況と変わらないと答えたということがあって,
それを受けての記者から長官へその気持ち,つまり私の気持ちに変わりはないかという
質問だったと私は解釈しております。
そのことに対して,長官が皇室の繁栄とそれから,これは意外と報道されているところでは抜けているというか,
知られていないように思うのですけれども,
アキシノノミヤ一家の繁栄を考えた上で3人目を強く希望したい,ということを話しております。
宮内庁長官の自分の立場としてということですね。そのような質問があれば
宮内庁長官という立場として,それについて話をするのであれば
そのように言わざるを得ないのではないかと,私はそのように感じております」
「殿下は私を庇って下さったのだ」
長官の目にうっすらと涙がにじんだ。
「あの当時の私は、本当に皇統が絶えると思って必死だったのだよ。
東宮家が「二人目はいらない」などとおっしゃって。じゃあ、どうするんだと。
そしたら「アイコがいる」などと言い出して。
皇族自らがそんな事を言いだすとは誰が考えるかね。
もっとショックだったのは、それを両陛下が否定しなかった事だ」
長官は思い切ったようにミルクティを飲んだ。
「それは・・・そうだろう。確かに現在東宮家にはアイコ様しかいないのだ。
しかし、たとえ女帝でもいいとしても、発達障碍のお子を世継ぎにと言えるかね?
現代の天皇は賢くあらねばならぬ。
回りには皇室廃止を目論む連中がうじゃうじゃとしているんだ。
自分の身は自分で守らなくてはならぬ。
皇統を断絶させないように。でも今の東宮家、ひいてはアイコ様に
その能力を求めるのかね?
皇位継承権を持つ方が誰もいないならわかる。
しかし、今はいる。アキシノノミヤ殿下という方が。
そして妃殿下は2人のお子に恵まれた。あの時・・・・・なぜ産児制限など」
「皇后様はきっとジェンダーフリーでいらっしゃるのではないかしら」
女官長が鋭く言った。
「女性の権利を重要と考えるのです。子供を産むも産まないも個人の自由と」
「だったらアキシノノミヤ家が子供を沢山持つ権利だってあった筈じゃないか」
侍従が横から口をはさんだ。
「そりゃあ私だって東宮妃はお可哀想と思いますよ。8年も不妊に悩まれて
プレッシャーもあったでしょうし。しかしながら長子相続に拘らなければ
世継ぎそのものをアキシノノミヤ家に丸投げだって出来た筈です。
東宮妃と比べてあちらは健康で丈夫で、何人でもお子様が望めそうだったのですし。
私には東宮妃が勝手に自分を悲劇の主人公にしている風にしか見えませんね」
「私は限界だよ・・・・もう何が正しくて何が間違っているかわからん」
長官は声を落とした。
「後はよろしく頼む。みなで協力して皇室を盛り立ててくれ」
(次の長官は外務省から来るっていうのに)
東宮大夫は暗澹とした気持ちで頭を下げた。
いずれ自分もここを去るだろうと思った。
しかし、その後が問題なのだった。
傷心の長官にさらに追い打ちをかけるような出来事があったのは
それから約1か月後だった。
長野へ行く方向で調整し、やっと東宮妃も納得し
準備を進め、さあ、今から出発というその日。
出発1時間前。
突然、皇太子妃は「長野にはいかない」と言い出したのだ。
「私の言う事、誰も聞いてくれないじゃない。だったら私だって
聞く必要はないわ」
と言い出したのだ。
まだ2歳の内親王を伴って公務先へ行くなど、日本の皇室では
考えられない事だった。何の為にそこまでしなくてはならないか
わからない。
ゆえに宮内庁としては「却下」を言い続けてきたのに。
その「仕返し」が1時間前のドタキャンだったというわけだ。
出発の準備をしていた皇宮警察はあたふたと右往左往し
時間がずれ、各方面への連絡と対応に追われ
迎える長野では真っ青になって「え・・・・何で?」としか言いようがなく
会場の設営をやり直し、また県警の警備体制も変え、時間も変更。
もう何が何だかわからない状態になった。
長官はそれこそ倒れそうになりながらも
「体調が悪くなった」と発表させた。
だが、本当は誰も信じていなかった。なぜならその数日前まで
マサコはシコと一緒に長野でスキーを楽しんでいたのだから。
しかも御大層に、その映像まで公開していた。
たった数日で何があった?
スキーで遊び過ぎた為?週刊誌などの憶測を呼びこむ事になった。
長官という職務における最後の仕事がマサコドタキャンの言い訳だった。