ご日程
両陛下
2月4日ー9日・・・両陛下 → 葉山御用邸滞在
天皇陛下 → 通常業務
皇后陛下 → (「三善晃先生追悼コンサート~オーケストラの夕べ~」鑑賞
2月10日・・・天皇陛下 → 宮中三殿参拝
2月12日・・・両陛下 → ペーター・マウラー 赤十字国際委員会総裁とお茶
皇太子同妃両殿下
2月6日・・・皇太子殿下 → 第60回青少年読書感想文全国コンクール表彰式及び同パーティー
2月9日・・・両殿下 → タイ首相夫妻と会う
秋篠宮家
2月9日・・・紀子妃殿下 → 第19回結核予防関係婦人団体中央講習会開講式出席
2月10日・・・紀子妃殿下 → 第19回結核予防関係婦人団体中央講習会判別討議聴講
皇室は一休み・・・という日程でしょうか。
両陛下は葉山へ、秋篠宮家は沖縄へ。
東宮夫妻が会ったタイの首相夫妻というのは、現在の暫定首相で軍事政権なので
両陛下に会う事が出来ず、それで皇太子夫妻になったのだといいます。
皇太子夫妻に会った事で、西側諸国に受け入れられた・・・・とあちらさんは思ったようです。
首相夫人はタイシルクのスーツ。一方の雅子妃はパンツスーツ。それも上下が
何ともちぐはぐな印象を与える「普段着」
だけど、この4人写りの写真がタイに送られると思うと、ちょっと嫌ですよね。
ウイリアム王子が福島訪問へ
今月末、来日するウイリアム王子が福島へ行く事が検討されている。
安倍総理が同行予定。
申し訳ないけど、なぜ「福島」なんですか?
津波で大きな被害があったのは三陸なのに・・・・・
要するに「原発」でしょう?「原発反対」って事でしょう?
すっかり福島は「原発反対運動」の象徴的存在になりました。
だけど、忘れて貰っては困るのです。
東日本大震災の被災者の大部分が「津波」が原因であった事を。
心を寄せるならまずそっちじゃないかと私は思いますが
震災以後、福島のアピールの巧みさには感心して来ました。
元々、観光アピールの上手な県です。それに比べると宮城も岩手も
下手だよなと思う事しばしば。
だけど、とにかくウイリアム王子が「福島」に心を寄せるきっかけになった事を
知りたいと思うわたしはひねくれ者ですか?
近代皇室を、4代の皇后から考えると、本当の意味での改革者は
昭憲皇太后であったと思います。
江戸時代までの皇室は天皇と東宮以外の皇族は五摂家の下に置かれていました。
つまり、一条家出身の美子皇后は血統的には随一だったのです。
それまで後宮の奥にひっそりと存在していた天皇の后が、明治維新と同時に
京都から東京に引っ越しをし、十二単から洋装へ変わる。
女官制度も整備し、福祉や殖産興業を奨励するようになる。
男子皇族もまた江戸時代までは仏門に入るのが当然の身の上。
それが明治になって格上げされて軍事に携わる替りに独立の宮家を建てる事が出来ました。
洋装
洋食
女子教育
夫婦で公務
福祉と殖産工業奨励
皇室外交
現在の皇室の基本がここでつくられました。
それは当然「政府」の後押しがあって出来た事。
だけど、京都の御屋敷の中でおっとりお育ちになった姫にとっては
驚天動地の日々だったのではないかと思います。
それを成し遂げる事が出来たのは、明治天皇が「皇室」の地位向上と
存続に命をかけ、皇后としてその流れを助けたからではないかと思うのです。
大正時代になると、明治天皇の偉大さを知っている人からは
「あんな天皇で大丈夫なのか」と言われます。
貞明皇后は九条家の出身ではありましたが、庶子であり育ちかたもちょっと特殊。
美人ではなく、体の丈夫さだけを頼りに入内したような方です。
この時代の皇族は完全に「華族」の上に立っています。
華族の姫より皇族妃の方が立場が上。出自も華族出身の妃よりも皇族出身の妃の方が
何となく立場が上。
そんな人たちに囲まれた貞明皇后は、四人の親王を産む事で皇室の存続に貢献しました。
また、どことなく卑下されがちな夫の地位を守る事に全力を傾けたといえるでしょう。
それでも最終的には摂政宮に奪われてしまうのですが。
貞明皇后は明治、大正と受け継いできたものが昭和になって崩されるのをひどく嫌がりました。
その最たるものが
「女官制度」です。
昭和天皇が女官の住み込み制度をやめて、通いに改めたこと。それは「側室制度」の否定であり
全ては「良宮の為」だった事に貞明皇后は違和感を感じるのです。
(そもそもそういう思想になったのはイギリス留学だったわけですが)
だって当時は皇太子が生まれていません。秩父宮にも高松宮にも子供がいない。
いくらご自分が4人産んだからってその後、「正妃」が産むとは限らないわけで。
思えば、秩父・高松も共に側室を持たず・・・・結果的にそれが皇族の先細りを助長して
しまいました。
明治天皇は皇位継承者を増やす為、時には政府と闘いつつ宮家を増やして来ました。
しかし、明治天皇の時代に増やされた宮家はいずれ臣籍降下するしかない立場。
大正天皇に弟がいない以上、本来は昭和天皇の弟達が次々息子を得て宮家を創設
しなくてはならない立場でした。
しかし、息子を得たのは昭和天皇と三笠宮家のみ。
貞明皇后は長男の価値観の変化に大いに嘆きを覚えたのではないかと思います。
ゆえに、ご自分は亡くなるまで皇太后宮の「女官制度」を変えようとはしなかったのです。
香淳皇后は久邇宮家の出身。生まれも育ちも皇族です。
しかし、久邇宮家の父・兄ともに問題児で貞明皇后を怒らせるわ、皇室の権威を失墜させるわ
昭和天皇もその対応に苦慮していたといいます。
香淳皇后は昭和天皇が側室を持たない事に、どう思っていたのか・・・・女としては
それは嬉しい。だけど「皇統」を考えるとどうなのか。
日々、針のむしろで世継ぎのプレッシャーを感じつつ、きっちり2年ごとに出産を繰り返し
「側室を持たないなら自己責任で世継ぎを得るしかない」という、女性にとってどうにも
ならない責務を負いつつ、漸く皇太子と常陸宮を授かるのです。
昭和天皇が側室を持って皇子が生まれれば、その子は「儲君」となり、皇太子になります。
そうすれば今上は産まれていなかったかもしれません。
「愛」の為とはいえ、側室制度を否定した事での「責任」は倍倍で皇后にかかってきました。
どちらが本当の「優しさ」だったのか・・・・と、思います。
ともあれ、香淳皇后は皇太子を得て地位が安定。
でもだからといって、皇太子を私物化する事は許されませんでした。
親子であっても「皇后」「皇太子」の隔たりをきちんと守らなくてはならなかったのです。
それを「寂しい」と今上は感じたのかもしれませんよね。
戦後の香淳皇后は11宮家の臣籍降下と華族制度の廃止で、自分自身のアイデンティティが
崩壊する程の衝撃を受けました。
皇族が平民に、平民が皇族になる。この立場の逆転はとても受け入れがたいものだったでしょう。
娘の嫁ぎ先が次々トラブルに見舞われる。溺愛していた長女はその苦労で早く亡くなる。
岡山なんて遠い所に娘は行ってしまい、病気で死にかけるし、夫の裏切りに傷ついた娘もいる。
一方で、光のように登場した皇太子妃はこの世の富を全て持っているような人。
香淳皇后のプライドは一瞬ズタズタだったろうなと思います。
本来なら昭和天皇・秩父宮・高松宮・三笠宮が一枚岩となって戦後の皇室を
支えて行かなければならなかったのに、秩父宮は早死にしてしまい、残りの御二方は
天皇との間に一線を画していました。
旧皇族はみな、皇太子が選んだ「民間出身の妃」に、自分達の「血統」が否定されたと
感じたでしょう。
皇室に背を向ける人も多かったと思います。
香淳皇后は正田美智子の入内に本当に反対していたのか・・・・
心の中で反対しても表だって「絶対に嫌だ」とはおっしゃいませんでした。
なぜならそれは「お上が許した事」であり「皇太子が選んだ人」だからです。
昭和天皇だって生物学的には「皇族や華族から選ぶよりいい」と思っていても
本当はどうだったかわかりません
だけど、昭和天皇はGHQの手でつぶされそうになっていた皇室を何とか存続させる事が
出来ました。
その為に回りをクリスチャンで固められようと、平民出身のお妃を勧められようと
断る事は出来なかったのではないかと思います。
戦前までは現人神として精神的象徴だった天皇と皇后。国の父母だった。
戦後、人間宣言をした事で、あらてめて「天皇の存在意義は」と考えた時
それは次世代に委ねたのではないかと。
美智子妃の華やかなファッションと皇室外交は、「国民が求めた皇室の新しいすがた」
だったんだろうと思います。
そもそも皇族方のファッションを庶民が批評するなんて事、戦前は考えられなかったわけで。
皇室に関心を持たない層が増えつつある中、ファッションというとっかかりから
理想の家族、頑張って働けたらいつかあそこまでとは言えないけど、似たような生活を
する事が出来るかもしれないと思い、親近感を持つ国民が増えた事でしょう。
美智子妃は出自ゆえに、「皇室の在り方」というものに、最初から懐疑的であったような
気がします。
民主主義の時代に青春を送った美智子妃は、「血筋による差別」「出自による差別」
「男女による差別」などには特に厳しい目を向けた筈です。
どれも個人の責任ではないからです。
美智子妃が殊更に福祉に目を向け、施設訪問を続けたのは
そうする事で「人間はみな理不尽さと闘い続けている」事を実感し、それを見る事で
自分が癒されたからではないかと思うのです
かのエリザベート皇后のように、あるいはダイアナ妃のように。
今上もまた、民主主義と天皇制が相容れない事はよく御存じです。
だから何とか折り合いをつけようと頑張って来たのですが、矛盾を払拭する事は出来ず。
最終的に「皇室終了」のフラグを立て始めたような気がします。
単に矛盾を払拭できないからなのか、闇の勢力に負けたのか、あるいは
自分自身が染まってしまったのか・・・そこまではわかりませんけど。
(東日本大震災の時に「玉音放送」しましたが、それを全編流したテレビ局が
少なかった事で、ある意味失望したかもしれませんよね)
皇后陛下にとって「伝統」は抑圧で、「理屈が通らないしきたりは排除すべきだ」と
お考えのようです。その姿勢は実は結婚された時から変っておらず、
ゆえにケネディ大統領追悼ミサや東久邇さんの三回忌でも、一人だけ和装で貫き
通す事が出来たのでしょうし、最近の法事には和装をお召しなのはそういう事です。
ティアラをつけないのも、それが正しいと思われているからで
「ティアラがあってもなくても自分は自分」という自信があるのだろうと。
じゃあ、なぜ伊勢神宮ではお長服だったのか。
いっそのこと、そこまで我を張るなら伊勢にも和服で御行きになればよろしかったのに・・・と。
ベルギーへも。
(本来は十二単の筈ですけどね)
首が・・・足が・・・と理由づけをしないと「伝統」を破る事が出来ない部分が、皇后の
弱い所なんだろうと思います。
国民から絶大な支持を受けて来た両陛下。
ほとんどの国民が大好きである両陛下。
しかし、国民の心はうつろいやすい・・・皇室が人気商売になってしまっている今、
人気というものの凋落を誰より恐れているのは・・・皇后陛下だと思います。
「皇室」に政治的な利害関係をもたらしたのは皇后陛下ですが(本人とは無関係に)
自己の利害関係にまで発展させたのは雅子妃です。
結果、どうかるかはわかりませんけど。