秋篠宮両殿下 銀婚式 おめでとうございます
これからもお健やかに仲良くお過ごしくださいませ
国民は秋篠宮家の繁栄を心から祈っております
1989年の8月。そのニュースは突如私達の耳に飛び込んできました。
「礼宮さまご婚約内定」ニュース。
学習院のキャンパスを父君と歩く紀子嬢は、音声がないものの
清楚な雰囲気でいかにも「女子大生」と「いう雰囲気。
っていうか、バブルのあの頃、あそこまで清楚な女性はそうそういなかった
婚約会見で生の言葉を聞いた時
「こんな時代に、こんな言葉遣いをする人がいたの?」状態。
なんせ「お答えしてもよろしゅうございますか?」ですよっ
それは「礼宮様は初恋ですか?」と聞かれた時の答え。
私なら「はい」か「いいえ」で答えそうな処、紀子嬢は
「お答えしてもよろしゅうございますか?」とお聞きになった。
そして礼宮殿下は自信を持って「どうぞ」とおっしゃり、紀子嬢は
にっこり笑って「はい。そうでございます」と答えられたのです。
また「お子様は何人ですか?」ときかれて、礼宮がじょうだんめかして
「何人にしましょうか」というと、紀子嬢は吹き出しそうになるのを耐えつつ
「それも・・よく相談して」と。
まあ、なんて奥ゆかしいのっ 誰もが思い出した。
「初恋」ってこんな感じよねっ 一途で甘くて酸っぱくて。
回りが顔を真っ赤にしてしまう程、お二人は愛し合っていたのでございました。
が・・しかし。
実は「紀子様バッシング」はこの時からひそかに始まっていたのです。
婚約時期が昭和天皇が亡くなられて半年後の事であった事が、異常に取り上げられ
「喪中なのに婚約を強行したわがままな礼宮」から始まり
「実は紀子妃は堕胎していた」やら「そもそも礼宮とは身分が違う川嶋紀子嬢は
結婚が認められるとは思わなかった」等々
紀子ちゃんフィーバーで、世間は大騒ぎしている陰で、こんな報道もいくつかみられたのでした。
天皇家としては1990年の11月には即位の大礼があり、どうせ結婚させるのなら
ぜひこれに参列してもらわねば困る・・・・(と考えたのが陛下なのか宮内庁なのか
それはわかりませんが)
紀子嬢は単に「礼宮のお妃」として宮中に入るだけでなく、いきなり「筆頭宮家の妃」
という立場で「即位の大礼」に臨まねばならなくなったのです。
皇太子妃不在のこの時、「筆頭宮家の妃」は皇后に次ぐ地位
国際的に大きな行事であり、失敗は許されませんでした。
もし、この時、雅子妃がいたら・・・・・と思うと、ちょっとぞっとしますよね。
私達国民は、ただただ庶民的で可愛らしい、だけど「育ちのよさ」を十分に感じさせる
可愛い「紀子スマイル」にまいっておりました。
礼宮とのツーショットがラブラブで、いいなあと思った人も数知れず。
そして迎えた1990年6月29日。
その日は曇っていて、とても寒かった・・・・本当に寒かったんです。
朝、ピンクのワンピースを着てご両親に「ありがとうぞんじました」とおっしゃった
可憐な紀子嬢は、颯爽と新調した萌黄の十二単に身を包み、まるで平安時代から
タイムスリップして来たのか?と思う程美しい姿を私達に見せてくれました。
まさか、朝見の儀、秋篠宮の髪を直す紀子妃の写真が物議をかもすなんて
思いもよらなかった事
朝見の儀を終え、ローブデコルテにコートをお召の紀子妃は本当に美しかったです。
コートがゴージャスで私は大好きでした。
でも、車がオープンカーでなかった事にはちょっとがっかり。
窓から手をふられる紀子様は、一瞬にして「秋篠宮妃」として存在していました。
この時、必死に「お妃らしく」振る舞おうとされたのでしょうね。
そして、宮邸について、着替えて庭で取材を受けた時の姿を見てびっくり。
え?あれが宮邸・・・・・?
申し上げておきますが、事大はバブル最終期。
結納金は100万。婚約指輪はダイヤで給料の3か月分、新婚旅行はヨーロッパ
やニューカレドニアが当然だった時代ですよ。
新しい宮家の誕生に、てっきり宮家を新築するのだとばかり思っていたのに
なんと職員宿舎とはっ
それでも「そのいち新築するんだろう」と思っていました。
だって皇族だし、筆頭宮家だし。
ところが!
「学生結婚なのに新宮邸は贅沢」と言われた(誰に?)為に
延々とこの職員宿舎にお住まいになったのでした。
確かに学生結婚に違いないのですが、でも、お二人は若い皇族として
両陛下と皇太子に次ぐ立場。
賓客をもてなす事もあるでしょうに・・・・・何で宮邸を新築しなかったのでしょう。
秩父宮妃がそのあまりのみすぼらしさに
「自分が死んだらこの宮邸を使って」と遺言を残され、やっとお引越し。
一時、秩父宮邸より広い高松宮邸に移るのでは・・・・という噂がありましたが
それも「辞退」
悠仁殿下が生まれた時はプレハブで増築でしたっけ?
申し上げておきますが、平成になって吹上御所は新築されました。
東宮が結婚する時も東宮御所が大幅に改修され、その後も改修されました。
高円宮邸も改修されています。
というか、末端宮家が宮家を創設する時には「職員宿舎」という選択はなかった
んですよね?
なぜに秋篠宮邸は新築される事がなかったのか。
今もって疑問です
学生結婚でも学問も公務もしっかり務め、さらにお子様を産んで育てていらっしゃる。
その「成果」をなぜに認めて差し上げなかったかと。
「両陛下の強い思い」はこういう時は絶対に出て来ませんけど
それだけではなく、私達は小さな眞子姫や佳子姫の着袴の儀の画像すら
見せて貰えないのでございますよ。
確かに秋篠宮家への様々な「遠慮の強制」は雅子妃入内以後、表面化しましたが
実は結婚当初から、なにかにつけて「遠慮」させられてきたのが事実ではなかと。
その理由はよくわかりません。
今上と常陸宮兄弟の親密さがない事
大正天皇まで一人っ子だった皇室は秩父宮が生まれた時
「天皇の弟」への扱いに苦慮したと言います。「弟」とは何をする人なのか
近代の皇室にそんなマニュアルなど絶えて久しかったからです。
慎重派の昭和天皇に対して、一つ違いで「スポーツの宮様」と呼ばれた
秩父宮はとても人気があり、一時は「擁立」を考えた人がいる程。
高松宮は有栖川宮家の祭祀を受け継ぐというちょっと特殊な宮家。
そして末っ子の三笠宮は、思うに兄宮と年齢が離れすぎてあまり親しみを
感じた事はなかったのではないかと思われます。
昭和天皇に皇太子が生まれなかったら、皇位は間違いなく秩父宮に移って
いたろうし、その後は三笠宮系統で繋がっていたかもしれませんね。
今上と常陸宮は兄弟とはいえ、あまり親しさを感じません。
幼い頃から別々に暮らしていたという事もあるでしょうけど、「弟」として
あまり期待されていなかったせいもあるのではないかと
(それは公務ではなく、やっぱり世継ぎの話で)
今上は現皇太子程「弟」にライバル心を燃やしたことなどないでしょうし
弟が自分に匹敵する立場になるという事も考えてはいないでしょう。
(古い話ですけど、日揮事件でぽしゃった常陸宮様の喜寿のお祝いは
どうなったんでしょうか?陛下が「中止」にしたのですけど)
要は気遣いがないんですよね。
現代、皇太子と秋篠宮で逆転現象が起きています。
「兄と弟、どちらが天皇にふさわしいか」という事です。
世継ぎのいない兄、世継ぎをもうけた弟。
本来なら皇統は弟に譲られるべきであり、それ相応の扱いを受けるのが当然。
しかしながら、今もって秋篠宮家は沈黙と遠慮を押し通しています。
けれど、依頼される公務の質や量が、今までの宮家の比ではなく、どの宮家も
経験した事のない立場の「重み」というものが秋篠宮家にはあるのです。
沈黙も遠慮もしていられない状態になっている筈です。
もはや「長幼の序」は逆転しているのだという事に両陛下も気づいて頂きたい。
本当に将来の皇室を憂えるなら、目の前にいる皇統」を大事にして頂きたいです。