秋篠宮両殿下は25年目の結婚記念日に対して「文書」ながら
対談形式で思いを綴られました。
結婚25年にあたって
〈出会い〉
秋篠宮 「今年は結婚をしてから25年が経つようです。
時間は常に経過していますので、取り立てて25年に意味づけをするものでは
ないと思いますが、少し振り返ってみるのも記憶と記録を整理する上で
よい機会かもしれませんね。
紀 子 「はい。私たちの今までを整理する方法のひとつとして、
対談の形もあるのではないかとのお話になりました。
このような形に慣れておりませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
秋篠宮 「もっとも、結婚する前にしばらく付き合っていた時期があるので、
そのあたりから始めましょうか。いつのことか覚えていますか?
紀子 「30年位前になりますでしょうか。私が大学1年生の春、
本を探しに大学内の書店に立ち寄りましたとき、初めてご挨拶をさせていただきました」
秋篠宮 「私の記憶に間違いがなければ、1985年の5月のことです。
ちょうどそのころ、各地の文化や自然を楽しむことを目的としたインター・カレッジの
サークルを作ったので、そこに誘ったところ喜んで入ってくれました。
白川郷の合掌集落などずいぶんあちらこちらに出かけましたね。
紀 子 「はい。いろいろなところを旅行して、地域の豊かな文化や多様な
自然にふれることができました。
秋篠宮 「そして1986年、ある集いがあった後、あなたを送っていく途中に…。
紀 子 「二人で信号を待っておりましたとき、突然、将来のことについてのお話があって、
びっくりいたしました。大学卒業後は、海外の大学院に行くことを考えていましたので、
どのようにお返事をしたらよろしいかと迷い、考えさせてくださいとお話しさせていただいて。
〈結婚にむけた準備〉
秋篠宮 「少し時計の針を進めましょう。私が大学を卒業したのが1988年ですが、
その年の夏から暫くの間英国に滞在しました。
この間、昭和天皇のご不例と崩御があったことから、
しばしば日本に帰ることになりました。
日本にいる間は、諸行事に参列するためだったのですが、そのおりに、
将来のことについていろいろと話す機会にもなりました。
そして、1989年の9月に公表するに至りました。
これはいわゆる結納に当たる正式な婚約ではなく、皇室会議の議を経て
婚約が内定したということを発表する機会でした。
服喪中のこうした発表は異例なことと思った人がいたようですが、
1951年7月の順宮(現池田厚子)様の発表は貞明皇后の崩御から約2ヶ月後で、
しかも当時参考としていた旧皇室服喪令によると、
私たちの発表時期より一段階重い
服喪期間中でしたので、手続きを終えたという発表は前例にもあり問題ないと
宮内庁は判断したわけです。
そして、私たちの結婚の時期についてです。
秩父宮両殿下のご婚儀が1928年9月末で、昭和天皇の即位の礼が
同年の11月初旬。
その間は2ヶ月もなく、大変だったことを両陛下が聞いていらしたそうです。
そのようなことから、私たちのときには、結婚から同じ年の11月予定の即位の礼までに
ある程度の時間があったほうがよいとのことで、私が帰国した直後に式が
おこなわれることになりました。
紀 子 「とてもありがたい思し召しを賜り、感謝申し上げております」
秋篠宮 「話が少し前後しますが、昭和天皇の一周年の行事が終わり、
私は1990年の1月から6月にかけては英国に滞在していたわけですが、
その間、新たに住む家については、あなたに任せきりでした。
もっとも、改築の平面図を見てもイメージすることができない私より、
多少は空間認知に優れているあなたが見る方がよかったのは明らかでしたが。
今のは自分にとって都合のよい言い訳なのですが、
実際のところ帰国したのが6月21日で、6月29日の結婚式までは
約1週間しかなかったことを考えれば、新居での生活の準備は完全にあなたへ
依存していたわけで、このことについては申し訳なかったとしか言いようがありません。
紀 子 「いいえ。むしろ、英国よりのご帰国を待っていたのかのように、
式までの約1週間、宮中行事の習礼(しゅらい)をはじめ、
関係者とのこまかい打ち合わせが多くおこなわれましたが、
時差がある中、大変ではありませんでしたか。
秋篠宮 「幸いなことに、私は一般的に言われていることとは逆で、若いころは東へ向かうほうが
時差の影響が少なかったため、それで大変ということはなかったと思います。
紀 子 「新しい生活にむけての準備や支度は初めてのことばかりで、新居について、
相談をしたいと思いましても、当時は連絡手段としてメールはまだ普及していなくて、
電話やファクシミリで、英国との時差もあり、すぐには連絡がとれない状況でした。
式までに考えるべきこと、決めるべきことがたくさんあり、大学院の講義も受けていましたので、
時間が経つのが早く、準備を終えられるか心配でした。
そのような中、宮内庁の職員が、改築や内装をはじめ、よく考え、提案してくれました。
そばにいらしてくださったら、どんなに心強いかしら、と思うことはありましたが、
いろいろな人の助けを借り、用意をある程度進めることができました。
帰国されたときは、本当にうれしく、それまでの不安もどこかにいってしまうくらいでした。
もおうっ 勝手にしてっ 羨ましいっ それだけっ
一度だけ、紀子妃が記者達の前で涙目になった事があった裏にはこんな事が。
新居について任せきり・・・普通は「私の好きにしていいのね」だけど、公のお客を
迎える事もあるし、宮邸として恥ずかしくない調度を整えなくてはならないし。
泣きたくなるよね。
順宮と秩父宮の結婚も服喪期間中だったんですね。
でもあの時のマスコミはかなり「異常事態」と騒ぎました。じゃあ、一体
あそこまでバッシングしたマスコミはなんだったのよっ
宮内庁が庇わなかったからでは?
両陛下も「前例がある」とわかっていたら、誕生日会見等で少しは言って
あげてもよかったんじゃ。