2 日本は、戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、
どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、
国際貢献をどのように評価するか。
(1)戦後70年の日本の歩み
ア 敗戦から高度経済成長へ
戦後の日本は、戦前の失敗から学び、平和、法の支配、自由民主主義、
人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援といった
近代の普遍的な諸原則の上に立ち、戦後構築された国際的な
政治経済システムの中で、経済復興と繁栄の道を歩んできた。
先の大戦で焦土と化し、敗戦と共に米国を中心とする連合国の占領下におかれた
日本にとり、国としての独立と国際社会への復帰、
そして経済の再建が急務であった。
日本は、1951年にサンフランシスコ平和条約に署名し、
同条約により、翌1952年に独立を達成した。
サンフランシスコ平和条約に調印しなかった国々とは個別に関係を正常化した。
そして日本は、1951年の世銀・国際通貨基金(IMF)への加盟を皮切りに、
1955年にGATT、1956年に国際連合、
1964年に経済協力開発機構(OECD)への加盟を果たし、
国際社会への復帰を果たして行った。
また、国交を正常化した国のうち、ビルマ、フィリピン、インドネシア、南ベトナムとは、
賠償協定を締結し、賠償事業を実施した。
日本が今日の政府開発援助(ODA)の形で各国に経済協力を始めたのは
1950年代前半であった。
1954年のコロンボ・プランへの加盟と共に技術協力を始めた日本は、
1958年には最初の円借款をインドに対して供与した。
日本のODAは、インフラ整備や技術支援等を通じ、
アジア諸国の経済発展に大きく貢献したが、初
期の経済協力は日本産品の調達を義務付ける「タイド(tied)」型の援助であり、
経済協力を通じて日本経済の復興を図る意図があったことは否めない。
1950年代半ば以降、日本経済は、高度経済成長を開始した。
戦後初期、日本は米国の支援を受けて、経済再建への基礎を築いた。
1955年から1973年まで経済成長率は年平均10%を超え、
早くも1968年には西ドイツを抜いて自由世界第2位の経済大国になった。
この背景には、戦後米国を中心として作られた自由貿易に立脚した
国際経済体制が日本産品の輸出を受け入れてくれたことがある。
特に米国は、日本のGATT加盟を後押しし、1950年代に依然として
日本工業の主力産品であった繊維産業の最大の消費国となって以来
一貫して自国市場を日本製品に対して開放してきた。
ただし、急速に経済成長を遂げた日本であったが、国際社会における自己認識は、
この時期はまだ「小国」のものであり、
主要先進工業国の一として、自らの市場を大きく開いて
国際的な自由貿易の増進に貢献しようとする意識は低かった。
また、高度経済成長の過程では「四大公害」をはじめとする
環境問題や深刻な都市問題が発生した。
イ 経済大国としての日本
経済大国になった日本に対し、日本がその国力に見合った責任感や
国際政治経済システムの維持に貢献しようとする意思を有しているかどうか
という点について、世界は徐々に厳しい目を向けるようになった。
いつまでも後発の工業国家として、国内市場を保護しつつ輸出を懸命に
増やそうとする日本の姿勢は批判を受け、
米国との間では経済摩擦が起こるようになった。
また、東南アジアの国民感情に対する配慮が不十分だったこともあり、
1974年に東南アジアを歴訪した田中角栄首相は、
ジャカルタとバンコクで激しい反日デモにあった。
へーー・・・としかいいようがない。
それ以降1970年代には、日本企業は、アジア諸国への直接投資によって
現地生産を行い、本格的にこれらの国々への技術移転を開始した。
日本企業は、自動車や電気製品などの製造拠点をアジア各国に築くとともに、
これらの国々において天然ガスや石油鉱物資源の開発を開始し、
やがてその資源は日本へ輸出されることとなった。
アジア諸国における日本企業の進出は、日本からの技術移転や
資源開発支援が増えるほど、これらの国々と日本との貿易も増えるという
好循環につながり、日本経済とアジア経済の相互依存関係を構築してきた。
また、現地に溶け込んで、共に働くという日本企業の姿勢は、
アジアの国々を中心に共感を呼んだ。このような日本企業の努力が、
政府開発援助と並んで、アジアにおける日本のイメージを好転させる上で、
大きな実を結んだ。
こうした経済面における交流に加え、
1972年に国際交流基金が創設される等、1970年代、日本とアジアの間では
文化面の交流も活発になった。
1975年に先進国首脳会議(G6、後のG7)が創設されると、
日本はその一員となり外交の視野を広げることとなった。
1974年の東南アジアにおける反日的な動きを受けて、
1977年に福田赳夫首相が発表した「福田ドクトリン」は、軍事大国にならない決意、
東南アジア諸国との間で政治・経済のみならず社会・文化を含めた
「心と心の触れ合う相互信頼関係」を築くこと、
東南アジア全域の平和と繁栄に寄与することをうたい、
日本の対アジア協力の方向性を示すことにより、
東南アジアの国々に大きな安心感を与えた。
しかし、安全保障面においては、依然として、日本国内では、
国際秩序の安定に積極的に貢献しようとする意識は低かった。
また、経済面においても日本は、多国間貿易交渉を着実に受け入れ、
激しい貿易摩擦にもかかわらずプラザ合意等を通じて米国を中心とする国際通貨システムを
支えることに貢献し、工業製品に対する関税障壁を撤廃したが、
従前の農業政策との関連で世界における自由貿易促進に対し、
抑制的な面があった。
当時の日本は、依然として、安全保障面、自由貿易面で、
国際秩序の形成、維持にリーダーシップを発揮し、あるいは、
大きな役割を果たすことができなかった。
日本が、国際貢献の手段として推進したのが経済協力であり、
この頃からアンタイド化が進んだ日本のODAは、1989年には世界第1位となった。
確かに、敗戦国として焦土から出発した日本が、
戦後の安全保障や経済秩序構築、すなわち、システム構築の面での貢献が
少なかったことは事実であるが、世界1位となった日本からの経済協力が
途上国の経済発展と社会的安定に貢献し、
このことが国際秩序の安定につながったことを考えれば、
日本による国際貢献は、決して華々しく目立ちはしないが重要なものであった。
また、日本の経済協力は、特に1980年代以降、経済発展から得た知識と
技術のみでなく、オイルショックにともなう省エネの必要性や
公害等の課題を克服する過程で得た経験に基づき、
途上国の課題に適合する形で行われてきた。
この相手のニーズに沿った形の経済協力が途上国の発展に効率的に貢
献してきたことも評価に値する。
ODAの総額は、延べで有償約16.6兆円、無償約16.3兆円、技術協力約4.7兆円であり、
約37.6兆円に上る。戦後、海外からの支援で奇跡の経済復興を果たした日本が、
今度は支援する側として途上国の経済開発に貢献してきた日本のODAの歴史は、
国際社会における日本に対する信頼を高めたと言える。
要するに「相手」の言いなりになったら「よい国」であるという事?
ウ 経済低迷と国際的役割の模索
1989年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結した。
東欧諸国では民主革命が相次ぎ、1991年末にはソ連が崩壊するに至った。
この頃、日本は、多額のODAを初めて東欧諸国に投入して、
東欧諸国の民主化改革、市場経済化を支援した。
それは、既に良好であった東欧諸国との関係を、冷戦終了後、
一層、強固なものとすることに大きく貢献した。
日本の民主化支援は、90年代のASEAN諸国が次々と民主化した際にも行われ、
現在も、選挙制度構築支援、法制度改革等の形で引きつがれている
1990年代の日本は、バブル崩壊を経験し、「経済大国」という自信を失い、
国際社会における自らのアイデンティティーを問い直す時期を迎えていた。
経済は停滞し、1997年にピークを迎えた政府開発援助(ODA)は
その後減少を続けた。
当初予算ベースでは、現在は97年に比べて半分近くまで落ち込み、
かつて世界1位であった順位も5位にまで後退している。
他方で、国際経済面において、日本は、
1989年に設立されたアジア太平洋経済協力(APEC)を支援しつつ
1980年代からアジア太平洋地域における自由貿易の促進に貢献するようになった。
冷戦終了後のAPECには、中国、香港、台湾が参加し、
1998年にはロシア、ベトナム、ペルーが参加し、名実ともにアジア太平洋最大の
経済会議となった。
また、日本は、1990年代後半のアジア通貨危機において、
影響を受けた国々へ大きな支援を行った。
この危機を契機にアジアにおいては、アジア通貨基金やチェンマイ・イニシアチブが創設され、
域内国間の自由貿易協定が多く誕生する等、経済面における地域主義の流れが加速した。
21世紀に入ると、統合を進めるASEANを中心に東アジアサミット(EAS)構想が登場し、
2005年にそれが現実のものとなったとき、米国は消極的であったが、
日本は、印豪の参加はもとより、将来の米露参加へも開かれたものとすることに大きく貢献した。
成長を続けるアジア太平洋地域を自由貿易圏に転化していこうとする
日本政府の政策は、1980年の大平正芳首相が提唱した環太平洋連帯構想に
さかのぼることができるものであり、
現在行われている環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉等の
経済連携協定をはじめとして、複合的に重なり合うアジア太平洋域内の
幾多の経済連携協定締結への流れにそのまま連なっている。
エ 安全保障分野における日本の歩み
第二次大戦後、日本は、日米安全保障条約が可能にした軽武装、平和路線の道を
一貫して歩み、経済発展にまい進してきた。
日本は、過重な防衛費を負担することなく安全保障を確保し、
経済復興に専念するために、日米安保条約の締結と米軍の駐留継続を選択した。
日本が安全保障面において国際秩序の安定に貢献しようとする意識は低く、
米国の保護の下、経済発展を遂げるという姿が戦後数十年続いた。
安全保障の文脈で、日本が「国際貢献」という言葉を広く使い始めたのは、
1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻に対するモスクワ・オリンピック不参加からであった。
大平首相は1980年1月に
「日本は世界平和のために犠牲にしなければならないこともある」と国民に宣言し、
これに続き、1983年の米国のウィリアムズバーグに参加した中曽根康弘首相は、
日本が国際社会の安全保障問題に関与していくことを明確にし、
先進民主主義工業国家としての責任と自覚を公言した。
しかし、その後の日本の実際の行動は必ずしもその言葉について行かなかった。
1980年代においても、日本は、安全保障問題に関与する意思はあったが、
実際に行動を起こさなければいけないという意識はなかった。
この日本の安全保障問題に関する消極的姿勢は、
1990年代に入ると転換を見せる。
冷戦が終焉(しゅうえん)し、グローバル化の進行とともに非国家主体が
大きな役割を果たすようになった。
その一方で、宗教対立、民族対立、テロリズムと人々への脅威が多様化し、こ
れまでの安全保障の概念では対応できないケースが出てくる中、
日本は90年代以降、第1次湾岸戦争後の掃海艇派遣(1991年)、
国連平和維持活動(PKO)への参加、特に、
カンボジア和平と国づくりへの支援(1992〜93年)、
更に、その後の日米防衛指針(ガイドライン)改定(1997年)、9・11同時多発テロを
契機として始まった米国のテロとの戦いにおけるインド洋給油活動(2001〜10年)、
アフガニスタン復興支援国際会議を中心とする同国への支援(2002年〜)、
イラクでの人道復興支援(2003〜09年)、
ソマリア沖・アデン湾における海賊対策(2009年〜)といった
積極的平和主義の歩みを進め、ようやく安全保障分野における
積極的な国際貢献を開始した。この積極的平和主義の流れは、
今日も続いているが、90年代前半からこれまでの日本行動を振り返ると、
実際のニーズからは常に半歩遅れの行動であったことは否定できない。
例えば、湾岸戦争での輸送や医療面での協力、インド洋でのパトロール活動への参加、
イラクでの住民の安全確保のための活動などは行い得ず、
国際社会の要望に完全に応える形で貢献を成し遂げてきているとは言えない。