買ってしまいました。「別冊 宝島」編集の
「美智子さま81年の歩み」
この表紙はいわゆる「朝日グラフ昭和34年新年号」のものでしょうか。
まるで芸能人のグラビアのような表紙でしたよね。
美智子さまの生き方
これを読むと、世論や印象操作をしている・・・という事の不気味さを感じます。
半世紀以上「悲劇の皇太子妃」の役割を演じ、それを疑いもしなかった国民。
ちょっと滑稽な感じがします。
そして、今もまたその操作は続いている。総仕上げ状態です。
これをそのまま信じる人達もいるだろうし、書籍となって文章となって残っている以上
実際は「違う」と声を大にして言ってもきかないというか。
それほど「ペンの力」とりわけ印刷されたものの力は大きいです。
「偉大なる美智子皇后の事績」に関して、どのような報道のされ方をしているか
細かくレポートしていきたいと思います。
美智子さまの事績
美智子さまの事績は、夫君である天皇陛下やお子さまへの愛情
また国民の安寧や平和を願う慈愛の心から行われてきたものであり
「開かれた皇室」「国民に寄り添う皇后」として新しい皇室像と評価される
一方で、その歩みは決して安楽なものではなかった。
伝統と前例を第一に考える宮中内部からの抵抗や、マスコミや世間からの
バッシングの標的となり、極度のストレスから流産や失語症などを経験されている。
(美智子さまは)幾多の困難の中にあっても、常に謙虚な姿勢で自らを
省みて、家族や国民のために自らの信念を成し遂げてきた「生き方」そのものに
あるのではないだろうか
最初から「バッシング」の言葉が出てきます。具体的な内容はありません。
「謙虚」な生き方に多くの国民は騙されてきたという事でしょうか。
いくら「皇族」でも、ここまで「上げ報道」が必要なんでしょうか。
これじゃまるで北朝鮮のようだと思いませんか?
やりすぎです。
「夫君である天皇陛下」・・・・・女帝の皇配殿下ですか・・・・・・
美智子さまの名言
わたくし、いい加減な気持ちであちらに行くのはやめようと思うの。
全然知らない所へ一人で飛び込んでいって、ベストを尽くそうと思っているのよ。
(昭和33年。婚約発表後、友人に)
民間初の皇太子妃としての皇室入りに象徴されるように、美智子さまが皇室史上で
最も特筆すべきことは「行動する皇后」である点。
「行動する皇室」
思わず「いい加減な気持ち」だったんかいっ と。
行動する皇后といえば、昭憲皇太后や貞明皇后の方が元祖ではないかと思いますが。
「乳母制度の廃止」「家族一緒に暮らす」事が改革と言われても。
子供をそだてるのは人間の心が中心になるので
なによりもまず本人の幸せを望みたい。
一番大切なのは、両親が子供の個性や発達の型を見極めて
深い愛情と忍耐でこどもの心を大事にそだてることだと思います。
意味不明の言葉にしか聞こえません。
「本人の幸せ」というのは戦後の大きな価値観になっているので否定はしませんが
将来、天皇となる子供の場合は「本人より国家の安泰を願う者」として育てるのが
筋だったかと。
この言葉を皇太子妃にはおっしゃる事がなかったという事でしょうか。
あるいはご自身が「子供の個性や発達の型」を見極めなかったという事ですか?
出産後
「この子は将来天皇にもなる方です。日本国民、神からお預かりした宝です。
自分の子ではいけないのです」
とはいえ「本人の幸せを一番に望んで」いたわけで。
それとも「お預かりした宝」だから甘やかしたとも言えますか?
↑
「この子」
誰もが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら
それでも絶望しないで生きている。
そうした姿をお互いに認め合いながらなつかしみ合い、励まし合って
いくことが出来ればと、そのように考えて人とお会いしています
(昭和55年の誕生日)
固い決意のもと皇室入りされた美智子さまを悩ませたのが
旧皇族や旧華族らによる、いじめともとれる対応だった。
しかし美智子さまの謙虚な姿勢とお気遣いにより徐々に宮中の美智子さまへの
風当たりは変わり、職員の中には隠れ美智子さまファンも増えていった。
美智子さまへのいじめがなくなるまでには結婚後20年もの長い年月がかかったという。
じゃあ、具体的にどんな事が「いじめともとれる対応」だったんでしょうか?
例の「手袋事件」のような事が頻発したという事?
あれは要するに「知らないのに知ったかぶりしてドレスなんか着ちゃダメ」ってことだったのでは?
宝塚でもああいうドレスの場合、手袋は肩までしますのに。
過去の写真を見る限り、とても「謙虚な姿勢」には見えないけど。むしろ
皇太子妃の地位に甘んじて「私流プロトコル」を作り上げていったしたたかさを感じます。
何でわざわざ「隠れ」ファンが・・・隠れなくてもいいじゃないの。
(家庭を知らずに)25年もけなげにお歩きになっていらした東宮さまのために
乏しい力の全部をあげてあたたかいホームを作ろうと決心いたしました。
(昭和33年 朝日新聞記者へあてた手紙)
皇太子「家庭を持つまでは絶対死んではいけないと思った」
皇太子さまは皇室の伝統によって生後、母から引き離され乳母によって
育てられ「家庭」を知らない。
美智子さま「今までの自分の見聞の中にも、読みました小説の中にも
こんな寂しい言葉はなかったと思います」
皇室の伝統の中で「乳母制度」というのは確かにあった事です。
大正天皇などは昭憲皇太后の実の子ではないことを知り、随分傷ついて
トラウマになった事もあったようですし、また、「家庭の温かさ」を知らない人で
あったことも事実です。
だけど、それが当たり前に過ごしていれば「寂しい」という感情はないのではないかと。
大正天皇はオープンな性格で、子供たちを随分お可愛がりになったようですし
要は「一緒にいる時間」をどれだけ濃密に過ごせるかではないかと。
今上の場合、戦争中で父母である両陛下が非常に多忙を極めた事も、「寂しさ」に
拍車をかけたのだとは思います。
しかしながら、お姉さまたちもいたし、「働く両親」に育てられたら「寂しい」という
ステレオタイプの家庭像を埋め込んだ正田美智子さんの価値観を疑います。
「もう大丈夫、私はピュリファイ(浄化)されました」
(平成6年 失声症の回復後に)
なんだって「ピュリファイ」なんて言葉を使われたか疑問です。
皇后陛下は結婚前から、何度もばたっと倒れる事があったようです。
それはヒステリー症状と言われていますが、そうなんでしょうか。
お妃教育の途中でも「皇后さまは私が民間出身であること以外に
何がご不満なのか」と言って倒れ、大騒ぎしたと入江日記には書いてありますよね。
非常にプライドの高さを感じます。
「美しくて頭が良くてお金持ちの私が皇太子妃になる事の何がいけないのか」と
そう思っていらっしゃるような。
けれど、それは否定しません。だって正田美智子さんはまだ24歳だったんですものね。
上記のセリフに裏に感じるのは
「私は悪くない。私に悪意を抱いた人たちを許します」というキリスト教的な
上から目線の慈愛であって、自らを省みているという姿勢ではないと思います。