皇居は日本一の緑の中にある。
私室棟の庭には蛍が舞い踊る。夏の風物詩だった。
今年の蛍はひときわ明るい光を夜の中に照らす。まるで「いつも見守っていますよ」というように。
そう考えると天皇はふと涙ぐんでしまう。
懐かしい母、皇太后のふくよかな笑顔が目に浮かんでくるからだ。
亡くなった時は、老衰であり年齢の事もあり「仕方ないのだ」と思った。
最初から覚悟して来た事であり、大きなショックを受ける事もなかった。
何といっても、もう長い事、皇太后は自分を「息子」と認識することすらできなかったのだから。
若かりし頃の優しくて華やかな笑顔が消え、ただじっと空を見つめている母を見ると辛いので
大宮御所から足が遠ざかっていたことも事実。
取り乱す事も、泣く事もなく、無事に葬儀を終えた。
けれど、喪の行事が終わってみると、なぜか悲しみが倍増してしまう・・・・ここまで皇太后の存在が自分にとって
大きいとは思わなかった。
先帝の崩御の時は、こんな風には思わなかったのに。
今は・・・もう齢67になろうとしている自分が、これで本当に「両親」を失ってしまった失望感に打ちのめされようとは。
二度と聞けない「東宮ちゃんがお小さい頃は、すぐにお熱を出されるので心配したものですよ。そうそう那須に疎開して
いた時だって、元気かしら、痩せてはいないかとそればかり」
何かあるたびに思い出話をする。あの頃は「またか」と思ったけれど、今はもう一度聞きたいと思う。
それはヒタチノミヤも同じようだった。
久しぶりに兄弟が揃った場が、葬儀の後というのは、どこの家でも同じなのだろうが、同じ敷地内に住んでいるのに
天皇と、その弟では立場も違えば役割も違う。
でも、今はそっと二人で向かい合い、お茶を飲みながら蛍の光る庭を見ている。
「おたあさま、今頃はおもうさまの側におつきになってますか」
「うん・・・」
「あの蛍、さっきからずっと同じ所にとまって光っているんですよ。お兄様はご存知でしたか」
「ああ」
「そう・・僕にはどうもおたあさまのように見えます」
「そうだね」
「きっと、おもうさまだけじゃなく、お姉さま達にも会われているでしょうね」
「あちらの世界の方がきっと穏やかで楽しいに違いないな。この世界はなんて煩わしい事ばかりなのか。
なぜするすると行かないのか」
ヒタチノミヤは黙った。昔からそうだった。決して自分からは意見を言わない。
意見がないとは言わないが、決して言わない。
わかっていても、こんな時は「どうされたのか」ぐらい聞いて欲しいと思う。
でも、弟とはいえ内廷外皇族のヒタチノミヤが天皇の悩み事に口を出す事ははばかられるのだった。
こんな時、宮に子供がいなくて正解だったと思ってしまう。夫婦二人で犬を飼いながらの生活の方が
どんなに気楽で楽しいか。
それが偏見であっても、ついついそう思ってしまう。
「なぜ皇太子妃がれん葬の儀を欠席したのですか」
そう言ってひどく怒ったのはキク君だった。
「皇太子妃は将来の皇后ですよ。皇后たる陛下がきちんとお躾遊ばすのが筋では。どのような理由があったか
存じませんけど、命をかけてもこういう儀式に参列するべきでは」
そう、マサコは皇太后の葬儀を欠席してしまったのだ。
東宮職が「夏ばてのようなもの」と発表した為に、またもや「懐妊か」という噂がたったが、結局そんな兆候はなく
「夏ばてのようなもの」が正式な発表として定着した。
しかし、れん葬の儀の当日。それは夏の盛りではあったが、車椅子のカツラノミヤと小さなマコ・カコも微動だにせず
宮殿の前に立ち、弔意をしめしていた。
その写真を後から見せられた時、天皇は目頭が熱くなったものだった。
病人や子供までこうやって粛々と儀式には参加するのに、健康なマサコが「夏バテのようなもの」で欠席とは
言い訳にもならない筈だった。
その予兆はあったと思う。
皇太后崩御が発表され、一番に大宮御所に乗り込んだのが実はヒサシであった事。
その事に驚き、いうに言われぬ不快感を示したが、どう表現したらいいかわからない間に
次々と行事が重なってヒサシに問いただすチャンスすらなくしてしまった。
皇太子妃の親が、外戚が、皇族にさきがけて一番に弔問するとは・・・・あまりにも僭越な事だった。
不快感をしめしたのは天皇だけではない。
皇后もまさか、妃の親がそんな事をするとは思ってもいなかったらしく、驚きと怒りで暫くは口をきく事も
出来なかった。そしてやんわりではあるが、東宮御所に使いを送り、今後は僭越な事はしないようにと
伝えた。
今までなら・・・少なくとも皇后なら、注意を受ければ反省し、二度とこのような事がないようにと恐縮するものだったが
マサコの場合、逆に怒りだし、実家に電話をしたと・・・・女官から聞いた。
悪いのはマサコの実家なのである。横柄で僭越で常識を知らない。
それなのに、皇后はなぜか非常にうしろめたさを感じてしまい、それきり口をつぐむしかなかった。
するべき事をしただけなのに、なぜ皇太子妃に正当性があるように見えるのか。
その後、葬儀の打ち合わせで皇太子妃とアキシノノミヤ妃、ヒタチノミヤ妃らを呼んで打ち合わせをし、
実際の動きをやってみたのだが、マサコは手順をなかなか覚える事が出来ず、歩き方ひとつっしかりと
出来ない。たまらず、自ら指導すると、次第にマサコの目に涙が一杯たまってきて、唇がわなわなとふるえだし、
回りの妃達が驚いて声をかけようとすると、マサコは目をきっと皇后に向け
「皇后陛下は私に恨みがあるのですか」と言い放った。
「何の話ですか」
「だから、こんな風にみんなの前で私を辱める事ですよ」
皇后はマサコが何を言っているのかさっぱりわからない。ただ所作や手順をやらせているだけなのだ。
本番で失敗は許されないのだから、練習をするのは当然ではないか。
マサコよりも年下のキコだって、必死に手順をメモし、一つ一つの動きを学んでいる。ヒタチノミヤヒだって、
こういう儀式は慣れている筈なのに、それでも真剣に打ち合わせに参加し、キコなどにずけずけと物を言っている。
キコはその度に頷き、すぐに最初からやってみる。そういう粘り強さを持っているのだった。
だのに、なぜマサコはそんな事を言うのか。
「私、皇后陛下に何かしましたか?何かしたならこんな嫌がらせしないで、言ってくれたらいいのに」
「何を言っているのかわからないわ」
「私の言う事なんか聞けないって事ですね。わかりました。どうせ私はバカですから、儀式の手順も覚えられないと
思っているんでしょう?だからこんな風にみんなの前で怒るんですよね。私、自分の親にだってこんな事は
された事がないのに。あまりにもひどいです!」
言うなり、マサコは部屋を飛び出して行ったのだった。
それっきりだった・・・つまりそれっきり参内しなくなったのだ。
皇太子に問うも、要領を得ず、ただただ「マサコを泣かしたんですか」と逆に詰め寄られる始末。
事情を説明すると「マサコはハーバードを出ているんですよ。そんな事、いちいちリハーサルなんかしなくても
出来ます。それに他の格下の宮妃の前で叱るなんて。僕がマサコでも傷つきます」
皇后は皇太子の言葉にいたく傷ついて、危うく倒れそうになった。
マサコの事に関しては饒舌な皇太子だったが、いざ、れん葬の儀の打ち合わせに入るとさっさと「あとはよろしく」と
東宮御所に帰ろうとしたので、ノリノミヤが怒って「無責任ですわ。東宮のお兄様」とつっかかった。
険悪な空気が流れるも、それから逃げようとするかのように皇太子は部屋を出て行った。
おおかた、マサコに「早く帰って来い」とでも言われたのではないか・・・・天皇はあっけにとられて言葉も出なかった。
そのままほってもおけず、葬儀の2日前に、御所で食事会をしたのだが、マサコは途中で帰ってしまった。
「気分が悪い」という事だったが、熱があるわけでもなく、顔色が悪かったわけでもない。全てが自己申告なのである。
葬儀当日は皇太子や東宮職が説得にあたったようだったが、それでもマサコは部屋から出てこなかった。
困り果てた結果が「夏ばてのようなもの」だったのである。
皇太后の葬儀は国葬である。
国の重要な儀式である。単なる葬式ではない。
それなのに、結果として皇太子妃は出席しなかった。これは重大な事故である。
許されない事である。
しかし、宮内庁は東宮職にも皇太子夫妻にも苦言を呈す事をしなかった。
繋留流産の時に、情報がマスコミに漏れたのは宮内庁のせい、東宮職のせいと大々的に週刊誌がさわいだせいで、
また、放送局やマスコミ自身にあたかも流産の責任があるかのように宣伝された事が、全体的に「マサコ妃に関しては
あまり触れないでおこう」という空気を作り上げた。
流産によって「心が傷ついた皇太子妃」というイメージは、このころ、世間一般を覆っていたのであり、誰もそれに
疑問を持つ事はなかった。
しかも、時はバブルがはじけたとはいえ、まだその浮かれた雰囲気を引きずっている頃、若者は「ゆとり」の中で甘やかされ
ひたすら「心が傷つかないように」と教育される。
「伝統をおしつける事は人生を否定する事」であるという間違った考えがまかり通っていた時代だった。
天皇皇后が皇太子妃に求めた事は、当たり前の事だったが、それで「傷ついた」と言った以上、傷をつけたとされる
側が悪いのだという話だ。
確かに「苛める方と苛められる方とどちらが悪いか」と問われれば「いじめる方」だと誰もが考える。
「苛められる方にも原因がある」などと言うセリフはタブーになっている。
それと、注意された事で「傷ついた」事を同列に語り、「自分は不当に苛められた。自分がそう感じたのだから悪いのは
相手である」と反論したマサコが勝ったのだった。
庭の虫たちは時々音を鳴らす。あまりにも悲しげな音に聞こえた。
天皇はただ黙って外を見つめていた。